三十五話 『呪文封じ』
「いったいいつからそこにいた!?」
「世界が夜に沈んだ時より」
「階下には兵士がひしめいているのに、どうやってここまで……」
「闇にまぎれて、影と共にこの場へ至った」
芝居がかった台詞を吐く魔王が、闇の中で枝に実ったリンゴを一つもいだ。
その背中には背嚢らしきものが背負われており、開いたふたがカチカチと金具の音を立てている。
刃を地面から引き抜く兵士達に、マリエラが大声で階段に向かって叫んだ。
「来い! 我が従僕達!!」
とたんに遠くから、無数の足音と鎧が鳴る音が迫って来る。
ユークがにやりと笑い、回帰の剣で枝の上の魔王を指した。
「ぬかったな魔王! どうやって忍び込んだかは知らんが、マリエラは事前に呪文を唱え兵士達を待機させていたのだ! あとは簡単な命令を口にするだけで部隊を動かせる!」
歯を剥くユークの言葉に、魔王は一言、小さく闇の中から返した。
へえ。
……ただ、それだけ。
こめかみに青筋を浮かべるユークの隣で、マキトが「来たぞ!」と叫ぶ。
階段から続々と上がって来る兵士の群。自分達の方へ駆けて来る従僕達を横目に、マリエラが魔王へ勝ち誇った哄笑を向けた。
「もはや、五人ばかりの兵士を盗んでも無意味! 屋内の戦いで神を使うことはできないけれど、百の兵士を場に満たせば逃げようもないわ!」
「かかれ」
魔王が、マリエラを無視してつぶやくと、五人の兵士達が一度にユーク達に襲いかかった。
迫り来る剣や槍を、ユークとマキトが防ぎながら後退する。二人に守られながらマリエラが「やはり」とさらに笑う。
「動きが単純だわ! 魔王は魔術は使えるけれど、赤い蛇を操り慣れてない! 勝てる!」
「マリエラッ!! 笑っていないで早く呪文を完成させろ! こいつらを殺せ!!」
ユークの声に、マリエラが駆けつけてくる自分の兵士達へ顔と手を向けた。「兵士達! この者どもを!」……そう、命令を飛ばそうとしたマリエラの横顔に、闇の中から飛来してきたリンゴがまともにぶち当たる。
短くうめいてよろけるマリエラへ、魔王に下った兵士の一人が突進した。すかさずマキトが、その兵士に戦斧を振り下ろす。
剣を持つ右腕を断ち落とされた兵士は、しかしそのままマリエラへ体ごと倒れ込んだ。
悲鳴を上げて押し倒されるマリエラに、ユークが別の兵士をつらぬきながら叫ぶ。
「マリエラ! 無事か!?」
「我が僕よ」
魔王が、マリエラに組み付いた兵士へ手を伸ばす。
つり上がった目を向けてくる神喚び師に、魔王が国旗の下で笑った。
「爆ぜよ」
マリエラの目の前で、兵士の体が突然はじけとんだ。体内から無数の赤い蛇が飛び出し、食いちぎられた血と肉が四散する。
飛んで来る血肉に顔をかばいながら、ユークとマキトががくぜんとして目を剥いた。
「赤い蛇に体を食い破らせた!? 何だ、目くらましのつもりか!?」
「マリエラッ!!」
密着状態から血肉の爆発を受けたマリエラが、顔を押さえてもだえている。
駆け寄ろうとするユーク達を、しかし残った魔王の僕が逃がさない。振るわれる刃を受けながら、ユークが、マリエラの命令で駆けつけた兵士の部隊に叫んだ。
「おい、手を貸せ! マリエラを守れ!」
……しかし、兵士達はもだえるマリエラのそばに整列したまま、動かない。
剣も抜かずに静止している彼らの前に、リンゴの木から降りた魔王が、ゆうゆうと歩いて来た。
「無駄だ。魔術は術者が呪文を唱えることで、命令を口に出すことで効果を発揮する。神喚び師は彼らに『来い』と命じた。だからはせ参じた。それ以上のことを他の人間が命じても、動きはしない」
「ユー……ク……! のど……が……!」
首を押さえてうめくマリエラの言葉に、ユークとマキトが顔色を変えた。兵士達に命令を下すべきマリエラの口からは、爆ぜた兵士の血肉がこぼれている。
爆発の瞬間に口を開けて、悲鳴を上げようとしたのだろう。だから飛んで来た血肉が、骨が、まともに喉の奥に入り込んだ。
そんなマリエラのそばに、魔王が屈み込んだ。
ユークが怒りの声をあげ、目の前の敵を斬りつける。
「貴様あああ!! マリエラに手を出すなアァーッ!!」
「騒ぐな。殺しはしない。不滅の神を殺せぬ以上、この女にはあのバケモノをつなぎとめる枷であってもらわねばならん。……だが……」
魔王が懐から、小さな瓶を取り出した。ふたを開けると、抵抗しようとするマリエラのあごをつかみ、口を開かせる。
「災いの口は、閉じてもらおう」
傾けられた小瓶から、得体の知れない液体が、ひとしずく落ちる。
それが喉奥に当たった瞬間、マリエラが全身を震わせ、声にならぬ叫びを上げた。
直後に、ぐったりと動かなくなるマリエラ。五人の兵士を全て倒したユークとマキトが、立ち上がる魔王に背中から襲いかかった。
「おのれ!! 彼女に何を飲ませたッ!?」
「気をつけろ」
魔王が小瓶を振り、中身を二人に放った。攻撃の勢いに体を引かれながらも、二人は間一髪でわきに飛び、液体を避ける。
地面に落ちた液体は小さな音を立てて、土を焦がした。
細く立ち上る煙に、マキトが額の汗をぬぐいながら「酸か……!」とうなる。
「金属の鉱脈が豊富なコフィンでは、酸も比較的容易に手に入る。こいつは俺が、万が一魔術師の敵と出会った時のために用意した、呪文封じの酸だ。喉に直接仕込めれば、丸一日以上は口が利けなくなる」
「……呪文封じだと……!」
「毒を使う者は、毒を無効化する薬も同時に用意しておくものだ。魔術師同士の戦いでは、敵の強力な魔術に必ずしも正面から対抗する必要はない……魔術を放つ、術者の口を封じてしまえば良いのだ」
魔王が、ゆっくりとマリエラから離れた。
ユーク達は彼女に駆け寄ろうとはせず、魔王に刃を向けたまま、はさみうちにするように移動する。
魔王は、自分が降りてきたリンゴの木のそばまで歩き、おもむろに立ち止まった。
「『知っている』ということは、戦力だ。魔術の原理、貴様らスノーバ軍の正体を、俺は知っている……だからこそ、こういう戦い方もできる」
「調子に乗るなよ……未開人のまじない師が……!」
「自分達がどれほど追い詰められているか、理解できないらしい。神喚び師が呪文をつむげない今……お前達は、すべてのスノーバ軍兵士に命令を送れなくなったのだぞ」
歯をきしませるユークとマキトが、駆けつけてからずっと、置物のように整列している兵士達を見る。
魔王はおもむろに黒いナイフを取り出し、自分の手の平を裂きながら息をついた。
「神も同じだ。もうお前達の意志では動かせない。待機を命じられた者どもはでくの坊のように立ち尽くし……国境や城の警備を命じられた者どもは、ただそれだけに徹する。具体的な命令がなければ、お前達が死にかけていても助ける義理はなかろうよ」
「死ぬのは貴様の方だ!」
「馬鹿と話していると疲れる」
魔王が、自分の手の平の血を逆の手の指ですくい、顔面の狼の絵の、口の辺りに近づけた。
白くにじんだ狼の顔に、ゆっくりと赤い口の線が引かれる。ぎざぎざと牙の形に波打つ血の線は、耳元まで達し、最後にぎゅっと指が音を立てる。
魔王が、頭上の闇に両手を向け、低く、言った。
「兵士を盗むだけが能じゃない。赤い蛇の操作は、生き物の隷属は、確かに俺の得意とするところではない……俺の『本領』は……」
ざわりと、木の上の闇がうごめいた。
ばっ、と顔を上げるユーク達に、魔王はほんの少し楽しげに、告げる。
「本来の『十八番』は、こっちの方でな」
魔王が小さく何ごとかをつぶやくと、闇の中に白い、動物の頭蓋骨が浮かび上がり……
そのまま闇が、ユーク達に襲いかかって来た。




