三十三話 『猶予』
アッシュは目の前に現れたちっぽけな怪異に、すぐには反応できなかった。
モルグの首に背を向け、城門前からほんの数十歩離れた道の真ん中に、白い小さな骨の塊がたたずんでいる。
アッシュの手の平ほどもない体躯のそれは、暗い眼窩に青白い火の粉のような光を宿し、まっすぐにアッシュを見つめていた。
「……カエル……の、骨……?」
つぶやいた瞬間、白骨化したカエルがかつんと音を立て、アッシュの方に跳ねて来た。
短く悲鳴を上げるアッシュの胸に飛び乗ると、カエルの口が大きく開き、耳鳴りのような声が響く。
『スノーバ人に捕まらないように、元来た道をたどれ。異様なモノは、君の味方だ』
その声に、わずかにダストのそれと似た響きを感じたアッシュが目を剥くと、カエルの骨はばらばらと崩れ、地面に落ちて行った。
……異様なモノ? カエルの骨を見下ろしながらつぶやいたアッシュが、数秒後にはっとして頭上を見上げた。
塀の上に、何か黒いモノが座っている。
まるで影をこねあげたような、闇の塊のようなそれは、頭の部分に犬か狼のものらしき頭蓋骨を浮かべ、青白い火の粉の目でアッシュを見ていた。
「……ダスト……? あなたのしわざなの?」
問いかけながらアッシュは自分の腕を抱き、ぶるりと一度震えた。
自分を見つめる火の粉は、ただ音もなく燃えているだけで、何を返すこともない。
アッシュはゆっくりと黒いモノの下から離れ、早足で歩き出した。振り返ると、黒いモノはやはり犬のように四つん這いで身を起こし、塀の上を歩いて来る。
ああ、ついて来るんだ……
アッシュは怪異を歩きながら横目で観察していたが、やがてその足元に影がないことに気づくと、たまらず顔を前に戻し、駆け出した。
「コフィンの……魔王……」
話の内容から、察しはついていた。
古代魔術と魔王ラヤケルスに関して、これほどに深い話ができる人間は、コフィンにはおそらく一人しかいない。
生きていたか、ダスト。
小さく、ほんの小さく笑みを浮かべたルキナが、スノーバの将軍達と同じように闘技場の屋根に立つ男を見る。
敵国の国旗を覆面にした魔王は、両目の部分の覗き穴と、鼻の部分にほんの小さく空けた穴以外に素顔をうかがい知れる部分がない。
顔のほとんどを隠した彼を指さし、ユークがマリエラに怒鳴り声を向けた。
「何をしているマリエラ! 早くヤツを捕らえろ! 兵士を向かわせるんだ!」
「……闘技場の警備部隊へ! 天を焼く高き星の光! 白く燃ゆる、光球の…………あっ!」
呪文を唱えかけたマリエラが、半ばで口をつぐんだ。
彼女の視線の先では魔王が身をひるがえし、屋根から闘技場内へ続くはしごを一気にすべるように降りて行く。
すぐに姿を消す魔王に、ユークがマリエラの濡れた衣の胸元をつかみ上げてさらに怒鳴る。
「何故呪文を止める!? 逃げてしまうぞ!」
「だめよユーク! 視界から消えたら追えない! 魔術が使えない!」
「寝ぼけるな!! 今まで自在に兵を操ってきただろうがッ!!」
「だって兵士達への命令が、呪文の文言が構成できないもの! 顔も名前も分からない相手をどう定義すればいいのよ! 視界に入っている相手なら『かの者を捕らえよ』で事足りるわ、でも見えてもいない相手じゃどうしようもない!」
眉間に、かつて見たこともないほどに深いしわをよせるユーク。
彼につかまれてあえぐマリエラに、マキトがしきりにほほをかきながら声を向ける。
「単に『魔王』じゃダメなの? 『コフィンの魔王を追え』と命令すればいいんじゃ?」
「あいつの話が本当なら、コフィンには過去現在で二人の魔王がいることになるわ。個人を特定できる単語じゃないし……何より私が魔王の正体を理解していない。
見えない敵や知らない敵を兵士に襲わせるには、敵の具体的な姿や位置を把握していて、言葉で上手く表現する必要があるのよ。でなければおおざっぱな命令しか出せない」
「国旗をかぶっている者を追え、では?」
「魔王があの姿のままで逃げると思う!? ちょっとは頭使いなさいよ馬鹿!!」
マキトを罵倒するマリエラを、ユークが乱暴に地面に投げ捨てた。「何たる失態だ」と奥歯をきしませる彼に、ただの屍に変わりつつある兵士、魔王のメッセンジャーが、地面に突っ伏したまま声を向ける。
『魔術はけっして万能のものではない。どんな強力な魔術でも、その原理、ルールをつけば、案外無力化できるものだ』
ユークが、はじけるように兵士の元に駆け寄り、その腹を蹴りつけた。プレートアーマーが、がぁん、と高く音を上げ、兵士の体が仰向けに転がる。
銀色の胸甲を踏みつけ、怒りのあまり別人のようにゆがんだ顔で、スノーバの将軍は問うた。
「この兵士は何だ。どういう理屈で貴様の言葉を代弁している? 私の声は闘技場にいる貴様に届いているのか」
『隷属させたモノに、事前に吹き込んだ術者の声を喋らせることはたやすい。ある条件下でこの言葉を吐けと命じればいいわけだからな。
だがこの兵士の場合は、俺の聴覚の半分と視覚の半分を移して貴様の城につかわした。魔王ラヤケルスが追い求めた、死者に命を与える魔術の副産物だ。他者に自分の生命エネルギー、生物的能力を貸与し、その他者の見たこと聞いたことを知ることができる。
もちろんその間俺は左右の目耳で別々の世界を認識するわけだから、非常によく転ぶし注意力が散漫になる。今は聴覚だけそっちに残してゆうゆうと逃げているよ。ちなみに口は単に俺の口と連動してものを喋っているだけだ』
「チンケな魔術だ」
『この魔術の難易度が理解できないとは救いがたい。複雑な呪文を幾重にも重ねて初めてなせる技だ。単に兵士や神を暴れさせるだけの粗野な魔術とは、次元が違う』
ユークが回帰の剣を、兵士の喉元へとあてがう。
低く底冷えのするような声で「覚悟しておけ」と、歯を剥いて告げた。
「私の前に名乗り出たことを、必ず後悔させてやる。お前がどこにいようと、必ず見つけ出して、その首をはねてやる」
『いや、近いうちに俺の方から会いに行く。今日は宣戦布告と……警告を伝えに来ただけだ』
「……警告だと」
『民衆どもや王族を屈服させればコフィンが手に入ると思っている貴様に、それが間違いだと教えてやった。英雄を皆殺しにしようが、守護神を落とそうが、この俺を殺さん限り貴様らスノーバの勝利はない。
俺を無視して占領を進めれば……ある日、突然命運が尽きる』
フン、と鼻を鳴らしたユークが、回帰の剣の刃を一気に引いた。
兵士の喉が裂けると同時に体内に残っていた赤い蛇が残らず体外にあふれ出し、薄赤い煙となって蒸発する。
二度と動かなくなった屍から目を上げたユークは、立ち上がりながら今度はルキナを見る。
目をそらす彼女に小さく笑みを浮かべると、小さく「雌狐め」となじった。
「コフィンの魔王だと? こんな男の存在を今まで隠していたとは、まったく大したタマだ」
「……お前達にわざわざ教える義理はない。密告屋の元老院を切り捨てるのが少々早すぎたな」
「ああ、まったくだ。やつらめ、情報を出し惜しみしていたらしい」
言いながら近づいて来るユークに、ガロルがルキナの前に立とうとする。
だがその眼前にサンテが、肉断ちの剣の刃先を突きつけた。
目を丸くするガロルに、サンテが「よせ」とささやく。
「斬られるぞ。完全に頭に血が上ったユークは感情で人を殺す」
「ご苦労、サンテ」
ユークが、突然背後からサンテの髪の中に唇を埋めた。びくりと震えるサンテの肩に、ユークが回帰の剣を握ったまま、両手をそえる。
「ところで……分からないことがあるんだ。魔王は何故、勇者ヒルノアのことを知っていたのだろう? 魔王はコフィンの人間なのだろう? コフィンにヒルノアの名が残っているのかな? どうだね、ルキナ王女」
「彼の伝説なら我が国の正史にも残っているが」
「ほう、そうだったのか。正直お前達の低俗な歴史になどほとんど興味がなかったから、ろくに調べもしなかった。元老院の密告で十分だと思っていた。そうか、ヒルノアは本当にこの国の人間だったのか。今日は驚きの連続だな」
ユークの背後に、マキトとマリエラが近づいて来る。幸いマキトはきょとんとしていて、マリエラは先ほどユークに乱暴されたのが利いているのか、唇を噛んでユークの後頭部を見つめている。
だが、まずい。まずい話の流れだ。ユークはサンテの裏切りに気づきかけている。
ルキナはなるべく自然なしぐさで腕を組み、ユークを思い切り睨みつけながら言った。
「断っておくが、あの魔王は危険な魔術を使用した罪で我が国の法によって裁かれた罪人だ。卑劣な手を使って死罪はまぬがれたが、先王がじきじきに追放したコフィンの民ならざる者だ。我々コフィン王国とはもはや、何の関わりもない」
「そうか。ではやつはお前達のために名乗り出たわけではないと言うわけだな。あくまで個人的な動機で動いていると。ところでサンテ、魔王は我々が勇者の子孫であることも知っていたな」
「おい、いい加減にしろ」
そう低く言ったのは、サンテだった。彼女は鋭い剃刀のような目をユークに剥け、振り向きざまにユークの青白い衣の胸元を、逆につかんだ。
ほんの少し目を剥くユークに、サンテは鼻と鼻が触れるほどに顔を近づけ、まるで男のような声で凄む。
「私があのわけのわからん道化野郎に情報をもらしたとでも言いたいのか。仮にそうしたやつが居たとして、何故マキトやマリエラでなく私なんだ。レオサンドラや入植者達でなく、何故真っ先に私を疑う?」
「不死の巨人、という単語も知っていたぞ」
「私が軍の幹部の中で、一人だけヒルノアの血を引いていないから疑うのか。私がどれほどお前や革命政府に尽くしてきたと思ってる? マリエラにお前を取られた時も、お前の立場を考えて身を引いた。そんな私を疑い、脅すのか。それが長年の仲間に対するお前の道義か、ええ?」
ユークの顔に、敵意よりも面倒臭げな色がにじむのを見ながら、ルキナはサンテが今までどれほど自分を殺してユーク達の信用を得ようとしてきたかを思い知った。
髪を解き、己の過去を明かした時のサンテとは、まるで別の女のようだった。
それほどに演技が、真に迫っている。
だが、ユークの方もいつまでも押されっぱなしではない。サンテの束ねられた髪をつかみ「人前では敬語を忘れるなと、言ってあるはずだ」と歯を剥く。
そんな二人の間にマキトが割って入り、「よしなよ馬鹿らしい」と頭をかいた。
「魔王は僕らを精神的に揺さぶるために姿を現したに違いないんだ。そんなやつの手にまんまと引っかかってどうするのさ。
それにユーク。ヒルノアのことや不死の巨人の話は、僕らがコフィンに攻め込んでから何度か会話に出しただろ。レオサンドラさんだって革命の経緯は知ってるから、どこかで誰かに漏らしたかもしれない」
「それが何だ」
「魔王が自分の傀儡をずっと以前からスノーバ兵に混じらせて、スパイとして使ってたのなら、別にサンテが喋らなくたってことは知れるさ。ヒルノアの名前や神の正体くらい、僕らの周りの会話を盗み聞きしてれば知ることができるだろ」
ユークはむっと口を閉ざし、考え込むように視線を落とす。
しばらくして、おもむろに衣をつかむサンテの手を払うと、自分を睨む彼女に小さく「……それもそうだな」と声を向けた。
「サンテ、我々の絆と正義に誓って、やましいことはないな? 魔王のことは知らなかったし、我々の秘密をもらしたりもしていないな?」
「当たり前だ」
「自分の首にかけて宣誓できるか?」
「くどい。己の両親の屍から心臓をえぐりだし、さらしものにして革命政府への忠を誓った私だぞ」
思わず顔を引きつらせるルキナの前で、ユークが「そうか」とだけ言って、サンテの肩を軽く二度叩いた。
「では、信じよう。どうやらマキトの言うとおり、予想外の敵の登場に冷静さを欠いていたらしい」
「……やつをどうする?」
「下手に騒いでも入植者達を混乱させるだけだ。魔王はまた現れると言っているんだ、その時に血祭りに上げればいい……マリエラ、兵士達の中に潜んだ魔王の手先を洗い出すことはできるか?」
言葉を向けられたマリエラが、視線を落として首を横に振る。
「それは、ちょっと無理……まさか兵士の支配権を奪う敵が現れるなんて思ってなかったから……」
「……そうか。では、我々の周囲から兵を遠ざけろ。近くにはいないが、何かあったらすぐに飛んで来れるような距離に配置し直せ。それから……神の支配権だけは、絶対に死守しろ。敵は赤い蛇を操れるんだ。神も奪えるかも知れん」
マリエラが、不意にぱっと笑みを浮かべて顔を上げた。「それは絶対に大丈夫」と、ユークに擦り寄る。
「兵士を直接動かしている赤い蛇は一番大きな一匹だけだけど、神はそれ以外にも、体内の何千匹もの蛇が協力して体を動かしているの。群体なのよ。だからその全てを隷属させなきゃ神は支配できない。呪文を唱えるだけでも何ヶ月もかかるわ」
「君は三日で神を飼いならしたが」
「ええ。でも完璧じゃなかった。だから当時の神は飛べなかったし、時々私の意志を無視して妙な挙動を示したりしていたわ。内心ひやっとするようなこともあったけれど、必死に呪文を積み重ねていい子にさせたのよ。あなたのために。だから大丈夫だし……あなたも、私のこと、大好きでしょ?」
マリエラの、どこか妙な響きを感じさせる物言いに、ユークは無言で彼女の頭をなでた。
目を細めるマリエラに視線もくれず、「さて」とユークは、改めてルキナとガロルに顔を向ける。
「とんだ闖入者が現れたが、そちらに言うべきことは全て伝えた。同意書の件は三日以内に返事をしてもらおう」
「……このまま帰すのかい?」
「案ずるなマキト。死に体の彼らが何を知ろうと、もはや何の意味もない。それより今日は、やけに疲れた……こいつらの顔なぞ、もう一秒だって見ていたくない」
マリエラの肩を抱きながら、顔を背けてしっしっと猫を追うような仕草をするユークに、ルキナ達はすぐに背を返して歩き出した。
内心安堵の息をつきながら、ルキナは最後にサンテを横目に見る。
彼女は額を流れる汗をあえてぬぐわず、まぶたの中に入れながら、じっと虚空を睨んでいた。




