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棺の魔王 (コフィン・ディファイラー)  作者: 真島 文吉
棺の魔王0 -魔王の処刑人- (旧題 ヘッズマン・グレイブ)
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百五十二話 『偽りの免罪』

 独房の中には、繊維の敷かれた石の寝台だけがあった。

 人食いが運んで来たパンと水を腹に入れ、横になると、すぐにまぶたが重くなる。


 不思議なパンだった。麦ではない知らない作物の粉でできていて、甘かった。少女は毒は盛らないと言ったのか。盛らないと思うと言ったのか。正確に思い出せなかった。


 赤光が踊る監獄は、なぜか快適だった。静かで、涼しい。


 まぶたを閉じていると、人食いの姿が脳裏に浮かんだ。無数にいる優れた異邦人の一人に過ぎない彼女が、なぜか強烈に印象に残る。


 豊満な肉体。優しい声。サビトガが価値を置かない要素と、価値を置く要素が、一切区別なく脳を刺激し、人食いのことだけを考え続けている。


 アギナンテと言ったか。美しい名の響きだと思った。


 ……おかしい。やはり異常だ。

 サビトガは人食いに好感を抱いていた。好ましい会話をし、心の底の何かが触れ合った鍛冶師よりも、人食いを上に置いていた。


 あのパンだ。何らかの麻痺毒の類が仕込まれていた。


 だが、何のための毒だ?


 長い年月を経た石の寝台から、小さな石クズがこぼれ落ちた。

 目を開けると人食いが独房の中にいた。侵略者が寝台に腰を下ろし、しーっ、と声を上げる。


「ここは安全な場所。あなたを責める人は誰もいない。静かな、静かなお部屋……」


 これは呪文だと、すぐに気づいた。数え切れない信徒の懺悔や告白を聞き、慰めてきたのだろう聖職者が、天使のような手でサビトガの額を撫でる。強烈な心地良さと、安心感が、手の平から浸透してくる。


 人食いが頭を抱いてきた。得体の知れない香りが神経を溶かそうとしてくる。


 サビトガが自分の手の平に爪を立てると、人食いの細い指が、凄まじい力で拳をほどいてきた。


「告白なさい。我が子よ。何がそんなに、狂おしいのか……?」


 ハングリン。あの食わせ者め。


 サビトガは勝手に動く口を感じながら、探検家を胸中で罵倒した。


 免罪の符を取りに行けと言ったのは、これが目的だったのだ。自分の心を暴き、新しい靴を履かせたことへの、復讐だ。


 心を暴かれた探検家の報復。

 人食いを利用して、溜飲を下げようという腹だ。


 人食いアギナンテの声が、サビトガの告白に寄り添ってくる。相槌や同意の音は尽きることなく、どこまでも優しく、苦しみや後悔を受け入れてくる。


 傾聴と非審判的態度。優れた聴罪師の慰撫技術。


 だが、相手の話したくないことまで話させるこの行為は、けっして真っ当な尼僧の領分ではない。

 極めて暴力的で、侵略的だ。


「かわいそうに。かわいそうに。こんなにも傷ついて。こんなにも背負わされて。裏切られて。見捨てられて。悲しかったでしょう、苦しかったでしょう」


 もう大丈夫。大丈夫。

 繰り返される呪文が、毒のように耳に注ぎ込まれる。


 何が恐ろしいか。それは強制的に与えられる慈悲と共感が、心の傷を癒し始めていることだ。人食いはサビトガの抵抗を封じ、無遠慮に心の傷をいじくり、その上で治そうとしている。


 口に漏斗を突っ込まれ、無理やり流し込まれた薬とて、結局は病を癒す。

 人食いはサビトガの体にのしかかり、無理やり強奪した情報を舌に載せた。


「あなたの犯した罪は、でも、元を正せば――すべてが他の人のせいではなくって? 先王や、ミテン王子や、彼らにかしずく多くの不実な人達の、行動の結果ではなくって? あなたは真に罪深い者達の咎を、肩代わりしているだけ――」


 サビトガが、自分自身の心に宿り始める安堵に歯を剥いた。

 人食いの唇が、ゆっくりと動く。


「あなたの殺戮は、すべてが強制されたもの、守るためのもの。そこに本当の意味での罪など、ない。背負った使命も不当なもの。あなたを傷つけ搾取した国に、なぜあなたが尽くさねばならぬのでしょう」


「……国……」


「あなたに国の命運を放り投げた人達には、罪悪感はないのかしら」


 柔らかな赦しに包まれた意識に、けっして見過ごせない何かが混じった。


「あなたに多くを託した人達こそ、罪の意識を抱えながら、血反吐を吐いて戦わねばならないのではなくって? シブキ王子は本当にあなたの――」


 叫び、身をよじったサビトガの上から、人食いが短く悲鳴を上げて転がり落ちた。石の寝台から降りると、強烈なめまいが襲ってくる。顔を押さえ、肩で息をしながら、サビトガは驚がくの表情を浮かべる人食いに自分の意志で言葉を放った。


「これが免罪か……! ひたすらにお前は悪くない、被害者だと信じ込ませ、あらゆる罪の責任を他の者に押し付けさせる……ただただ心を軽くするためだけの、赦し……!」


「いけませんか?」


 人食いの前髪が乱れ、金色の右目があらわになっていた。笑みが消え、鋭さを帯びた眼光が苦悩する処刑人を射抜く。


「自分の罪に心底もだえる者に赦しを与えられるのは、聖職者でも、神でもないんです。被害者でもなければ、まして聴衆でもない。罪人を赦せるのは本人だけです。罪深い人を最も傷つけているのは、自分自身です」


「だから悪党は強い。罪悪感を持たない恥知らずほど長生きする」


 独房を出ようとするサビトガを、人食いがつかんだ。金色が暴力的な輝きを増す。


「死にますよ。正直で誠実な罪人ほど、無限に重荷を背負って押し潰される。どんな手を使っても良いんです。心地良い言葉と理屈で自分を正当化すれば、罪に殺されずに済む」


「俺には必要ない。生命よりも大事なものがある」


「そうやってまともな人ばかりが死んで、本物の大罪人がのさばるんです」


 自分をつかむ女の手がわずかにゆるんだ隙に、サビトガは構わず独房を出た。少女の独房を探して歩き始める彼に、人食いがしきりに前髪を整え、何でもない風を装いながら、言う。


「免罪は失敗しましたから、お代はけっこうです。またいつでもいらしてください」


「……騒がせてすまなかった」


「そんなことを言うくらいなら、抵抗しないでください。他のお客はおとなしくしてます」


 サビトガはふと足を止め、人食いを振り返った。最初の部屋にチャコールの絵があったことを思い出したからだ。「客は多いのか」と訊くと、人食いが腕を組む。


「人数自体は少ないけれど、通い詰める人がほとんどです。わたくしに頭を撫でられてる間、幸せだったでしょう? 本気で赦しを得たと思う人もいれば、欺瞞と分かっていて身をゆだねる人もいる。麻痺毒を使うのは、後者が自分に言い訳をする余地を残すためでもあるんです。魔女の術にかかったのだ、とね」


 サビトガの視線を受け続け、人食いは喉を鳴らす。「わたくしが人肉を食すのは」と、桃色の唇が音を立てた。


「それを望む人がいたからです。聴罪師様、あなたの血肉にしてください、私を赦すこの世でただ一人の他者の、身の内に送ってください。そう願う人がたくさんいました」


「あなたも十分、重荷を負っているじゃないか」


「私の胃に入りたくなったら、いつでもどうぞ。シチューにして、時間をかけて完食してさしあげます」


 笑う人食いに、サビトガは沈黙だけを返し、再び歩き出した。


        ◆


 石段を上がると、夜が明けていた。白い電気の空を見上げながら、サビトガは少女とともに石畳を歩く。「何もされなかったか」と訊くや、少女が免罪の符を取り出してみせた。


 上等な紙に聖句がびっしりと書き込まれた符。サビトガはなんとか歩みを止めずに言葉を継ぐことができた。


「例の……産道の使命の関連を話したのか?」


「いや。レッジに悪口を言ったり、レッジをバカにしたり、レッジをこき使ったりしたことを話した。あと弁当をつまみ食いしたこととか、皆に隠れて豆の芽をむしって食べてたことも話した」


 賢い。告白を促されても無理に逆らわず、一番話したくないことだけを避け、彼女にとって比較的どうでもいい話を延々と『告白』したわけだ。レッジが聞けば、当然怒るだろうが。


「人食いはニコニコ笑っていたが、一度思いっきり腋をつねられた。アイツ、性格悪いぞ。この符にもしれっと死の呪文とかが混じってるかもしれない」


「色々な異邦人がいるものだな。レイモンドのおかげで彼らと多少の縁はできたが……」


 サビトガは喋りながら視線をめぐらせ、昨日は気づかなかった廃墟の暗がりに、四つ目の看板を見つけてしまった。


 ブタが感涙しながらブタ肉を食っている絵。


 たぶん料理店なのだろうが、少女と視線を合わせると思いがけず同時に「今度にしよう」と言葉が重なった。


 昨日漂ってきた焼き肉の匂いは、本当はこちらの店が出所だったのかもしれない。


 集落を、異邦人達の影が行き交う。

 果実泥棒の店から丸太の落とされる音と、悲鳴が聞こえてくるのを無視しながら、少女が免罪の符をしゃぶりしゃぶり、言う。


「ワレワレの罪悪は、結局はワレワレ自身が抱え続けてケリをつけない限り、本当の意味で収まりがつくことはないんだろうな。仕方なかったんだ、しょうがないじゃないか、と言ったところで、結局納得できないのは自分自身だ」


「……俺の話を聞いていたのか」


「サビトガ。オマエは幸せにならなきゃダメだ」


 少女が免罪の符を噛み千切り、地に吐き捨てる。サビトガが歩を止めると、少女もまた歩を止めた。


「オマエが幸せになれれば、ワタシや、レッジや、シュトロも幸せになれる気がする。オマエが幸せになれなければ、ワタシ達も幸せになれない気がする」


「なぜだ」


「『ともに行こう』と言っただろ」


 少女がサビトガの足を引き、その腰を折らせる。ちぎれた免罪の符を、サビトガの胸にぺたりと貼った。


「良い所に連れて行ってくれ。おたがいに手を引いて行こう」


 サビトガが返事をするよりも早く、少女はくるりと踵を返し、「まあ」と吐息のような声を上げた。


「人食いの言うことにも一理はあるがな。オマエは真面目すぎる。たまには堕落した聖職者のでっかいおっぱいに浮気しても、バチは当たらないかもしれん」


「なんてことを言うんだ」


「冗談だ。絶対やらないと分かってて言ってる。だってオマエ嫌いだろう」


 生臭いことは。

 サビトガは少女の言葉にうまく言葉を返せず、免罪の符を指で押さえながら、彼女の後を追った。


 地底の風が、二人の背を押すように、音もなく吹き降りて、消えた。

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