三話 『魔王の遺物』
降ったり止んだりを繰り返していた雨が、明け方頃になると景色も満足に見えぬほどの豪雨に変わった。
草原の一角、なだらかな丘と丘にはさまれるように落ち込んだ場所に、横倒しになっている巨木の幹があった。周囲の草木とは明らかに毛色の違う、巨大な残骸。その中は空洞になっていて、一歩足を踏み入れれば頭上から、煙でいぶされた草を編んだカーテンが降りている。
高さにして大人の背丈五人分、幅は十人分の穴を完全にふさぐそれの向こうで、白髪の青年はカーテンと同じく大量の草を編み上げてこさえたベッドに横たわり、天井を見上げていた。
周囲には木を組んで作ったテーブルや姿見、石窯があり、壁には無数の戸棚がすえつけてある。
青年の見上げる天井にはぽっかりと一箇所だけ穴が空いており、そこにはめこまれた透明の膜を雨が叩いている。
膜を通して空間に差し込む淡い光を見つめながら、青年は上半身裸の身をごろりと転がした。
雪のような、というより蝋燭のような、白い肌。うぶ毛ひとつ生えていないその肩をさすり、青年は目を細める。
豪雨の音の中でも、耳をすませばコフィンの人々の悲鳴が聞こえてくるようだった。
暗い世界、暗い時代。スノーバの兵士達がこの場所を見つけるのも、時間の問題のように思えた。
今は亡きコフィン国王は、この場所の存在を知りながら、そっとしておいてくれたのだろう。食糧問題に常に頭を悩ませていた彼は、自国の大草原の隅々まで熟知していたはずだ。
となれば、同じように自分の居場所を知っていた家臣がいるのかも知れないが……仮に彼らの誰かがスノーバに告げ口をしたとしても、青年にはそれを責める資格などない。
青年はふと、コフィンのルキナ王女の顔を思い描く。最後に彼女と会ったのは、彼女がまだ少女だった頃だが、あの可愛らしい姫君は今頃どうしているのだろう。
国王の教育を受けて騎士の称号を得たと聞いているが、あの細い骨格ではどう鍛えても筋骨隆々とはいくまい。
軍の采配をとるための兵法の知恵や、国を治めるための学問を重点的に叩き込まれたはずだ。
ならば、かの姫君はあの細く頼りない体のまま、スノーバの将軍とやり合っているのか。
コフィンの政治は国王とその家臣、そして民に選ばれた元老院の議員との、共同作業の方式をとっている。
だが国王が一番の腹心たちと共にスノーバとの戦いで戦死したため、一時的にコフィンの政治権力は元老院の元に集中した。
元老院はこの一瞬でコフィンの全軍に撤退命令を出し、王都に白旗を立てて門を開放、スノーバに降伏を申し入れたのだ。
スノーバの兵力の前にこれ以上の戦争継続は不可能、敗戦を受け入れ戦後処理で国難と戦うべしと豪語したそうだが、その元老院がスノーバ側の強引な姿勢にすっかり萎縮してしまい、作戦会議と称して議員全員で議場に引きこもってしまったという。
そのために亡き国王の忘れ形見であるルキナ王女が、生き残った家臣達と共にスノーバの将軍に立ち向かっているのだ。
なまじ美しい顔つきをしているがために、舐められ、けむにまかれているのは容易に想像できた。
ルキナ王女はこれから、地獄を見るだろう。彼女が魂を砕かれ、スノーバに頭を垂れる光景を想像すると、青年はどうしても眠る気になれずに身を起こした。
黒いズボンから小さな葉を払い落とすと、壁際の戸棚のひとつを開いて酒瓶を取り出す。草原の雑草が夏にだけつける小さな青い実をすりつぶして作った酒で、この一本を飲んでしまえばおしまいだった。
瓶の四分の一程度しかない酒を、青年はしかし、一気に喉に流し込む。青臭く、うまみなど全くない酒が喉を通り、胃に流れ落ちた。
元々酒には弱い方で、顔がかっと熱くなる。
空き瓶をテーブルに置き、唇をぬぐうと、雨の音が次第に耳から遠ざかり、意識がとぎすまされてきた。
この状態で何か有意義な実験でもしようかと思った時、ふと耳の奥で何か異様な音が聞こえた。
草のカーテンを振り返り、耳をすます。しばらくしてまた同じ音が聞こえると、青年はベッドの横に放り出していた外套を引っつかみ、カーテンの向こうへ飛び出した。
豪雨の中をくぐるように、人の喉から発せられた高い声が聞こえてくる。
その声が、草原に埋もれた石の祭壇の方から聞こえてくると分かるや、青年は弾けるように雨の中を駆け出した。
一瞬にしてずぶ濡れになる肌に、直接外套をまとう。丘を駆け上がり、平らな草原が視界に入ると、水と草の風景の中に炎のきらめきが見えた。
雨の中でも燃え続ける、松ヤニと植物の油を使った松明の火。
人工の光は祭壇の中央付近に一つ、そのはるか向こうに三つ、風に踊っている。
青年は走りながら外套のポケットに手を突っ込み、どす黒いナイフを取り出した。甲虫の外骨格を油と蝋を混ぜた液で固めてこさえた握りは、雨をはじくとてらてらと光沢を放ち、硬い木の鞘を引き抜くと、やはり甲虫の足のような、ぎざぎざとささくれだった恐ろしげな形の刃が外気に触れる。
青年は酒気の混じった息を吐きながら、祭壇へと近づく。
黒い雨雲に覆われた空の東の方が、わずかに白みを帯びている。
この地における、日の出だ。雲の上の太陽が、暗黒の空を灰白色に染めていく。
その灰白色の空を背に、祭壇の真ん中で騒いでいた者がぴたりと身を硬直させた。
女物の麻服をまとった体が、石床に転がった松明の火に照らされながら、四つんばいになっている。そしてその頭部には錆びの浮いた、奇妙な形の鉄兜がはまっている。
青年は目を細めると、ナイフを構えたまま相手を観察した。竜の顔面を模したらしい、鉄の巻き角のある兜のすぐ下には、日焼けした細い喉と、びっしょりと濡れた布がはりついた胸の隆起。しぼるように細まっていく胴体の先にはまた、丸みのある肉のついた下半身がある。
青年はナイフの刃先を相手に向けながら、その足元に屈み込んだ。
祭壇の穴の中から、白い骨の手が生え、女の足首をつかんでいる。
兜の奥で、きっと顔面蒼白になっているだろう女の鉄仮面に、青年は厳しい目を向けた。
「穴に何か落としたな。何をした?」
「な……何も……」
「正直に言わないと助からないぞ」
肉に深く食い込む白い骨の指に、女は鋭利な形の二つの覗き穴から雨とも涙ともつかぬものを流しながら首を振った。
「何も落としてない! いきなりつかまれたの! おねがい、何とかして!」
「この穴の奥にいる者は、意味なく人間を襲わない。……けがをしているな」
青年は骨につかまれている女の足に、細かな赤いしずくを見つけて言った。
細い腰から垂れ下がった布を一気に腿までたくし上げると、女がひきつった悲鳴を上げる。
小麦色の日焼け跡が、膝をさかいにくっきりと途絶えている。真っ白な腿にはひとすじの血液の線が走り、尻の横には一本の刃傷が刻まれていた。
この女、血液を穴に落としている。青年が顔をゆがめると同時に、祭壇の周りが不意に明るくなった。
祭壇を、三人の男女が囲んでいる。景色を動いていた残りの松明が、祭壇に到達したのだ。
青年は震える女の腿から視線を上げ、膝と背を伸ばして立ち上がった。
スノーバの兵士かとも思ったが、祭壇を囲む者達は鎧も兜も身につけていない。
実用性を犠牲にした、酷く趣味的なデザインの肩当てや胴当てを、麻服や素肌の上から直接着込んでいる。
獅子の顔を模した肩当てを片方の肩にだけ着け、幅広の剣を背中に二本交差させて背負った男。
細かい茨の模様が刻まれた胴当てに、妖精の形をした柄の短剣を五つも差し込んだ男。
三人目の女にいたっては、白い毛皮の外套の前を開け、下着を丸出しにして、素肌を直接這うベルトに細剣を差している。
祭壇を囲む三人も、足元にうずくまる女も、甚だふざけた風体だ。青年は雨に濡れて重くなった髪をかき上げながら、獅子の肩当てをした男に声を投げた。
「スノーバの入植者……と言うより……『冒険者』か」
「英雄気取りならやめといた方がいい。その女は俺達の獲物だ。あんたも仲間入りしたいか? ……ええっと……にいちゃん、だよな?」
青年の顔つきと声に、獅子の肩当ての男は自信なさげに首をかしげた。足元の骨の手をそっと見やりながら笑う青年に、横から茨の胴当ての男がきんきんと耳に障る声を上げる。
「脱がせりゃ分かるんじゃねえの。構うもんかよ、一緒にやっちまおうぜ! どうせ誰も見てねえよ!」
「何をしたんだ」
青年が、出会ってから二度目の質問を鉄兜の女に落とした。女は足を締め上げる骨の手に痛い痛いと泣きながら、兜の奥でかりかりと歯を鳴らして答える。
「おなかが空いて、つい……道に落ちてた銅貨を、拾ってしまって……それを見られて……追いかけられて……」
「銅貨? 銅貨一枚でこんな所まで追いかけられたと?」
「でも、よく見たらスノーバの銅貨じゃなくて、コフィンの銅貨だったの……コフィンのお金なんて、今じゃ何の価値もないし……返すって言ったのに、聞いてくれなくて……」
「我々はスノーバ冒険者組合の者だ。これからスノーバの植民地となるコフィンの治安整備のため、自警活動をしている」
毛皮の外套の女が話に割り込み、赤銅色の髪の奥から冷たい視線を鉄兜の女に向けた。
「コフィンに存在する全てのものは、スノーバ人の財産だ。土地も建物も、木も、石も、水も食料も、道端に落ちている硬貨もすべてスノーバ軍と入植者のものだ。そこの女はスノーバの国籍を持たぬ、よその国の流民。銅貨を拾った行為は、スノーバ人に対する侵略行為だ」
「そんな話は国の上層では通っていないはずだぞ。……自警活動だと? つまりは自国の戦勝に浮かれ、勝手に先走って暴虐を働く不良入植者か。もっとも、スノーバの人間に『良』なる者がいるかは知らんがな」
「何ぃ……! やはり貴様もスノーバにたてつく不逞の輩か!」
松明を投げ出し、祭壇の中に踏み込んで来る三人に、青年は瞳を空の方に転がしながら口を半開きにして「あぁ」と低くうなった。
茨の胴当ての男が、妖精の柄のナイフを抜き取る。青年は視界の端にそれを見ながら、真珠のような色の歯をさらして言う。
「まあ、言い分は分かった。この娘を引き渡して欲しいんだな?」
「いや、もうそれだけじゃだめだ。気が変わった。あんたは俺達に時間をかけさせた。やはり二人とも狩る」
獅子の肩当てをした男の言葉に、青年がじろりと視線をやる。
「狩られたらどうなる? 組合とやらから褒美が出て、その肩当てが左右そろうのか?」
「良い勘してるじゃないか。その髪、あんたも純粋なコフィン人じゃないだろ? コフィン人の髪は金か茶色だからな……不逞の外国人二人には、奴隷にでもなってもらうことにしよう。俺達は商人から金をもらえてめでたし、あんたらは見知らぬ外国で金持ちのジジイにかわいがられてめでたし、誰も損はしねえやな。……抵抗するなよ。目玉の一個ぐらいえぐっても売り物にはなるんだからな」
三人の男女が、石床の上でめいめい武器を構える。
青年はうつむくと、声も出ないらしい鉄兜の女を眺めながら、手にしたナイフで自分の左手の甲を裂いた。
じくりと痛みが広がり、血の流れが雨に打たれ、しずくとなって落ちる。
鉄兜の女の足をつかんでいる骨の手が、青年の血を受けると同時にゆるんだ。
青年はナイフを捨て、そのままひざを折り、女と顔を並べるようにしてひざまずく。
三人の男女は、青年が観念したと思ったのか、刃を向けたまま不用意に近づいて来た。
青年の手が、傷口が、骨の手をそっとなでる。
ざわりと、祭壇の周囲の草が風と雨以外の力でうごめいた。
荒い息をする女が、鉄兜の奥から視線を向ける気配。青年はその視線を無視して、低く、つぶやく。
「地に眠る深き星の火の心臓……黒く燃ゆる、炎の名の下に告ぐ……祭壇に眠る者よ……『魔王の遺物』よ……そなたの敵は……」
獅子の肩当ての男が、青年の長い前髪をむんずとつかむ。
白髪の奥から現れた目は、自分に向けられている濡れた刃の先を睨んでいた。
「鉄の刃を持つ者」
「何をぶつぶつ言ってやがる」
かしげられた肩当ての男の首が、そのままぼきりと音を立てて逆さまになった。
うっ、と声を上げる男の首が、またごきりと音を立てて持ち上がる。
唖然とする人々の視線の中、祭壇の穴から伸びた長い長い骨の手が、つかんだ男の髪を、今度は真横にねじり始める。
白骨化した人間の腕。だが常識的なサイズを保っているのは手首までで、そこからひじまでの長さはゆうに成人の身長を超えている。
男が血を噴きながら首をねじ折られ、剣を取り落としたところで、ようやく彼の二人の仲間が絶叫とともに骨の手に攻撃をしかけた。
妖精の柄のナイフが骨の手首を削り、女の握る細剣がそこより少し下を断ち切る。首を折られた男の死体がどさっと石床に倒れ、骨の手はもだえるように空中をかき回す。
ひざまずいていた青年が、解放された鉄兜の女の腰をつかみ、祭壇の外へと転がり出た。それを見とがめ、茨の胴当ての男がナイフを両手に抜き放ち、投擲しようとする。
その瞬間、彼の両目に骨の指が突き刺さった。人のものとも思えぬ叫びが響き渡る祭壇から、長い骨の手が、わらわらと後から後から伸びてくる。
祭壇の真下からどすんどすんと重い音が響き、床を構成する立方体の石が吹き飛び、穴が広がる。
「何だ! 何だこれは! 何をした!? 何が起こっている!!」
毛皮をまとい細剣をにぎった女の目の前で、目をえぐられた仲間が悲鳴を上げながら、無数の骨の手に八つ裂きにされていく。
その場にいる二人の女が同時に悲鳴を上げ、細剣を握った方はまだ生きている仲間を見捨てて逃げ出した。
すると骨の手の群がぐるりと方向を変え、死体と瀕死の男をほうって女を追尾する。
穴からずるずるとのびる骨はひじの先にひじがあり、いくつもの関節がつながってどこまでも敵を追って行く。
その場でただ一人、今起こっている現象を理解している青年は、腕の中で恐怖のあまり失神する鉄兜の女の身を抱え、立ち上がる。
血まみれの祭壇を見れば、茨の胴当ての男が今正に息を引き取ろうとしていた。
青年は遠くに女の断末魔の声を聞きながら、静かに、無感情に言った。
「満足だろう、冒険者達……人生最大、最後の、大冒険だ」