百四十三話 『集落防衛戦 十一』
同じ光景が、過去何度も在ったに違いない。
人の勇気と殺意が褒め称えられ、英雄と呼ばれる限度を超えた光景。獣や悪人に立ち向かう者は、最低限目視できる勝機があるからこそ勇者と呼ばれる。
敵が、己の身長を超えぬ存在である。生物としての明確な弱点を持つ存在である。流血する。破損する。戦いの果てに、やがて物言わぬ屍と化す。
そういった証左があればこそ、戦わぬ人々は戦う人を称えるのだ。困難だが確かに勝利に続く道を行く者にこそ、英雄の称号が用意される。
だが、あまりにも強大な敵に向かう者には、名誉ではなく軽蔑が贈られる。荒れ狂う嵐や大波、火を噴く山に立ち向かう者の勇気は往々にして認められない。どれほどの大義を背負っていようと、どれほどの命の代理であろうと、勝機の見えぬ巨悪に抗う者は愚者と呼ばれる。
無謀と蛮勇。軽蔑と嘲笑の的であるそれらを抱える者の代わりに、しかし誰が人食う災厄と戦えると言うのか。
嵐や大波、火山に匹敵する魔の骸に、誰が傷をつけられたと言うのか。千年の時の果てに、死の縁へ追い詰めることができたと言うのか。
レイモンドの言は正しい。真に強大な人の強さとは、負けと死を受け継ぐことだ。勝ち得る敵に向かう者が陽の英雄なら、そうでない敵に向かう者は陰の英雄だ。愚と不名誉を積み重ね、誰にもなし得ぬことを可能にする。
最後の愚者が金槌を振り下ろす。魔の島の巨大骸骨に立ち向かった日陰者達の、勇気と殺意を開花させるべく致命の一撃を放つ。
もう、同じ愚行に走る者は二度と出ない。
巨大骸骨に飛びかかり傷をつけるという名誉は、永久に失われるのだ。
戦わなかった者には、何も無い。
炭と骨が、金槌を受けた場所から間欠泉のように噴き上がる。巨大な髑髏の中に充満していた熱気と蒸気が、擬似筋肉の膜を引きちぎり空気中に放出される。
巨大骸骨の全身が激しく震え、次の瞬間には全ての関節が伸びきり、大地に崩れ落ちた。胸骨やあご骨が土をえぐり、周囲の塔や木々に土砂をかぶせる。髑髏に無数の亀裂が走り、頭蓋部分がまるごと外れ、すべり落ちた。
熱せられ、蒸され、白く変色した巨大な脳が人々の前に姿を現す。まるで心臓のように鼓動していたそれが、空気に触れると同時にその動きを鈍化させ――。
やがて日陰の植物が枯れるように、硬く縮んで動かなくなった。
サビトガ達は、巨大骸骨の骨格から擬似筋肉が剥離していくのをしばし観察してから、誰言うでもなく露出した脳に駆け寄り、その肉をかき出し始めた。
巨大骸骨にとどめを刺したギドリットが、頭蓋が外れる際に足下の脳肉に没したのを大勢が見ていた。茹だった脳組織に包まれた人間が何分で死に至るか。そんなことを知っている者など、この世のどこにもいはしない。
油の炎はほぼ鎮火していたが、素手で触る脳肉は皮膚を焼くほどに熱い。武器やありあわせの道具で脳肉をかき出す人々が、ギドリットの名を呼びながら作業すること、数分。
シュトロが差し込んだバリケードの残骸を、赤みをおびた人間の手が脳の内側からつかんだ。すぐさま周囲の者達が力を貸し、バリケードと手を引き抜く。
苔の服の大半を脳の中に残し、湯気をまといながら、ギドリットが金槌を片手に扉をくぐるように歩き出た。上気した肌は傷としわだらけで、サビトガやシュトロが考えていたよりもずっと年経ている。
屈強な、筋肉質の、老人。頭部にわずかばかりの苔を残したギドリットは、脱臼した複数の関節をかばいもせずレイモンドへと歩み寄る。
脳肉にまみれたスコップに両手をつき、あごを載せるレイモンドに、ギドリットは金槌とともにつかんでいた太矢を差し出した。
巨大骸骨が出現した時、レイモンドが撃ち込んだ弩の矢だ。首を傾けるレイモンドに、ギドリットは濁った声で言った。
「『人間ならばよりクレバーに』……か」
「悪かねえだろ。こういう勝ち方も」
「ああ。だがたぶん、お前より私の方が、ずっと楽しんだ」
レイモンドは口の端をひん曲げ、低く笑うギドリットから太矢をふんだくる。
直後にあお向けに倒れるギドリットをサビトガ達に任せると、異邦人の村長は最も疲労と負傷の少ない者を数人みつくろい、集落の裏手へ状況確認に走らせた。
戦いの風は、おそらく止んだ。剣戟の音も断末魔の声も、今は聞こえない。
集落の上空から、炭とも骨ともつかぬ微細なクズが、電気の光をまとい、きらめきながら、陰の英雄達に降り注いだ。




