百三十二話 『稽古』
戦いの予感が、にわかに集落を静かな緊張で満たし始めた。
防衛の手順や下準備は事前にレイモンドが整えているらしく、ほとんどの住人達はそれぞれ指示することも相談することもなく、黙々と自分達のすべきことをする。
サビトガはシュトロとレッジ、少女とともに集落内を見て回り、構造と防衛機能を再確認する。塔や橋が乱雑に建ち崩れている集落は、しかし結局のところ四方を取り囲む空水路が防衛線だ。森から現れた敵が草原を抜け、水路に降りて蔦や瓦礫を登れば、あとは塔の窓や隙間から集落の敷地内に侵入できる。
水路の内側に壁でもこさえれば防衛力が上がるのに。レッジが珍しく隙のない意見を吐いたが、壁がこさえられない理由はすぐに判明した。
草原に『鈴鳴らし』の死体を陽動装置として設置していた住人達の声や足音が、微妙な曲線を描く水路の壁を響き伝い、集落側に向かって跳ね上がってきたのだ。草原で発生する物音が、集落の外周にいる者には驚くほど明瞭に聞き取れる。
調べると水路は単純な石材ではなく、石灰や火山岩、海水を混合したペーストでこさえられているらしく、より音を反射する作りになっていた。
枯れた水路が、草原の物音を集める集音装置になっているのだ。物見場である避難所に一人残されていたチャコールが、塔の出口ではなく中ほどで寝転がっていたのも、集落への接近者を音で感知できるからなのかもしれない。
「朽ちた遺跡に偶然できた警報装置ってことか。水路の音伝達の働きを阻害するから、防衛壁を作らねえってことだな」
「人手も少ないし、物見役を節約する意味でも水路を優先するってことか……」
納得するシュトロとレッジのわきを、数人の異邦人に押される荷車がごろごろと通り過ぎる。荷車には巨大な壷や岩が載っていて、水路周りの塔に防衛設備として配置されるようだ。
「原始的だな。重いモンを落っことして戦うのかよ」とあごをいじるシュトロ。最低限の防衛装置はあれど、実質的には優れた異邦人達それぞれの戦闘力で魔の者を倒さねばならぬらしい。
高度な兵器を苦労して揃えても、それを扱える人員が集落に滞在しているとは限らない。直感的に使える原始的な防衛機能の方が都合が良いのかもしれなかった。
いずれにせよ集落それ自体の守り方が決まっているのなら、サビトガ達は個々の戦闘力として魔の者と戦う準備をするしかない。一宿一飯の恩でもないが、地底世界の数少ない拠点と協力者達に持てる限りの剣を貸すだけだ。
ブレイズ達の避難所に戻ると、チャコールが昨日のコウモリ肉を調理し直していた。包丁を入れ植物の油にくぐらせたという肉を、木の弁当箱に詰めて人数分渡してくれる。
肉を食べたいと言っていたレッジが、チャコールに何度も頭を下げて謝意を示した。喜ぶ彼の腰に踊る銀色の剣を、しかしチャコールは少しばかり厳しい目で見る。
「剣士なんですね、レッジ君。でも、全然傷のない剣だわ。今まで何度抜いたことが?」
「えーっと……実際に誰かと切り結んだことは、そのぅ……」
「ちょっと構えてみて」
レッジが言われたとおり剣を抜き、刃を顔の横に構える。チャコールがコウモリを調理するのに使った包丁の背を、無言でレッジの刃にあてがう。
ぐいっ、と包丁が剣を押すや、レッジの指から柄がこぼれ落ちた。「あれっ!?」と目を剥くレッジに、シュトロが額に手を当てため息をつく。
「握り方がなっちゃいねぇんだ。親指と人さし指から力を抜いて、薬指と小指に力を入れろ。小指がぐらついてちゃ剣もぐらつくぞ」
「構えも、カッコばかりつけて下半身が据わってません。剣は足腰が基本です。軸足を安定させないと剣は振れませんよ」
シュトロとチャコールにはさまれたレッジが、情けない顔でサビトガを振り返った。サビトガは槍底から仕込み剣を抜きながら、「次にやることが決まったな」と、低い声を吐いた。
避難所の外、草の地面の上に、レッジの汗がぼたぼたと滴り落ちる。
抜き身の剣を握った彼は、最低限自分を刺さないための練習をさせられた後、サビトガとシュトロに実戦形式の稽古をつけられていた。
素人同然のレッジに真剣を持たせるのは危険だったが、魔の者は遅くとも明日にはやってくる。付け焼刃でも戦闘力をつけてやるには、木剣を使っている場合ではなかった。
「刃物はただ叩きつけても切れはしない。刃で肉を『引く』ことを覚えろ。それが斬撃の基本だ」
「腕だけで剣を振るな! 足と腰と肩と手首を総動員して、全身の力を剣先に集めるんだ! でなきゃ敵は殺せねえぞ!」
ひぃひぃ喉を鳴らすレッジが、攻撃を二人にやり過ごされながら地面に汗を吸わせる。剣を落としそうになったりすっ転びそうになった時は助けが入るが、それ以外は完全に自力で立ち戦うよう仕向けられた。
シュトロが握った木の枝を、レッジの目に向けて突き出す。「わああ!」と悲鳴を上げ剣で防ぐが、そのひざに寸止めの蹴りがあてがわれた。
「踏み折られてるぞ!」と叱咤するシュトロが、今度はレッジの剣を握る指をこそぐように枝を振るった。
シュトロの攻撃は総じて野生的で、えげつない。真っ当な剣術の前に殺人術を覚えた彼は、的確に人体の機能を奪うための加害行為を繰り返す。
一方サビトガは、あえて剣術の基礎としての、平易で単純な攻撃を加え続けた。剣の正道の技を覚えさせるために、純粋な技量でレッジを攻めていく。
レッジは苦痛と恐怖に気の毒なほどあえいでいたが、二人がかりの稽古に文句も言わず、何かを返そうと必死にもがいた。その真剣さが過酷な稽古においてただ一つの怪我も生まず、確かに彼の中の何かを少しずつ、着実に高めていった。
目をつぶってでも斬り殺せるようなド素人だったレッジが、昼過ぎにはとりあえず『どう攻めようか』と考える必要のある相手にはなった。腰の据わらせ方、剣の握り方は覚えた。一応斬撃らしきものも繰り出せるようになった。
無論たった一日で劇的に強くなるはずもない。レッジが覚えたのは剣使いとしての最低限の常識だ。だがそれは、彼にとっては大きな進歩だった。
チャコールが包丁の背でレッジの剣を落とせないことを確かめると、笑顔で彼の頭をわしゃわしゃと掻いてくれた。レッジはへとへとで、もはや背筋もまっすぐには伸ばせなかった。
昼用の弁当を夕方に食い、チャコール、ブレイズが厚意で用意してくれた蒸留水の水風呂に入る。その後避難所の物見場で焚き火を囲み、睡眠を取った。
魔の者は、日をまたいでやって来るようだった。




