二十八話 『信仰の終わり』
水気を含んだ風。丘の上に上がったアッシュが鉄兜を外し、髪をなびかせて空を見上げる。
わずかに青みを帯びた、曇り空。
大きく深呼吸をする彼女のわきに、ダストが椅子とバケツを引きずって来る。
「あの辺りだ。向こうの、雲が厚く固まったところ。モルグの作る風があそこで渦巻いている。姿を現すなら、あの中からだ」
椅子に深く腰かけるダストが、わきのバケツを手で叩く。
座れという意味だが、アッシュは立ったまま空を見つめ続けた。
彼女の頬が、わずかに上気している。
ダストは腕と足を組み、「そんなに期待されたらモルグも嬉しかろうよ」と笑った。
「コフィン人以外でかの竜をここまで見たがった人は、多分君以外にいないだろうな。少なくともスノーバの連中は、異様なバケモノを見る目を向けているはずだ」
「モルグを見られたら、死んでもいい。そう思って旅をしてきたんだもの」
当然よと声を返すアッシュに、ダストは鼻を鳴らして同じように遠い空を見る。
雲と風の渦巻く空の下には、地平線を断つようにコフィンとスノーバの都がある。
ダストは編んだばかりの髪が乱れるのを気にしながら、見慣れた守護神の出現を待った。
「ようこそ、コフィン人の諸君。まあぞろぞろとおそろいで……」
スノーバの都。入植者達が遠巻きに見守る大広場に、軍勢を従えたユークが待ち構えていた。
広場の真ん中の、一段高くなった石の壇上に立つユークのわきには、戦斧を担いだ勇者マキトと、サンテ、そしてギルドマスター・レオサンドラがいる。
ルキナは王城からついて来た自国の戦士達と、神を背に、じろりとユークを睨む。
レオサンドラが何のつもりか自分の唇に手を当て、その手をルキナに向かって親しげにかかげた。彼を無視してルキナはユークに声を放る。
「今日は、何の用だ」
「闘技場で受けた傷がようやくふさがったのでね」
ユークが、自分の眉間をとんとんと指で叩く。そこには剣闘士のマグダエルにつけられた傷が、長々と這っていた。
「完治の祝いに……また、お前達コフィン人への意趣返しに、宴を催そうと思ってな」
「相変わらずヒマらしいな。下らんことばかり考える」
「まあそう言うな。お前達にとっても楽しい宴になるぞ。歴史に残る衝撃的な宴にな」
ルキナ達の背後で、ずしん、と神が動いた。
振り返れば神は西の方角を向いて、両腕を広げている。何が始まるのかとガロルや戦士達がルキナの周りを固めるのを見て、ユークが楽しげに喉を鳴らして言った。
「このユーク将軍はスノーバの英雄であり、力の象徴だ。その顔に傷をつけたことは、大いにスノーバの人々の心を痛めさせた。ならばお前達コフィン人には、それ以上の苦痛を与えねば筋が通らん」
「何をするつもりだ!」
「コフィンの伝説はあらかた滅ぼしたが……ひとつ、とても大きな伝説が残っている。お前達の信仰に直結する伝説だ」
ルキナがさっと顔色を変え、ガロルを見た。小さく「モルグのことだ」とささやくと、ガロルが引きつった顔でうなずく。
「雲の動きが早い。雨が近づいています。まさか、この場でモルグを……」
「狩人のように巣を襲うのではないのか……! チビをかくまっていたのに、活動中のモルグを直接落とそうとするとは……!」
「さあコフィンの諸君、悪しきモルグ教から解放し、スノーバの神話を与えてやろう」
ユークがさっと右手を掲げると、神の上でマリエラが呪文を唱え出した。
低く響くその言葉に呼応して、神の口が大きく開いてゆく。
コフィンの戦士達の何人かが、短剣を抜剣した。だが即座にガロルが「収めよ!」と叫ぶ。
広場を取り囲む入植者達が、大剣や弓矢を構えていた。
コフィン人達のそれよりもはるかに高価で高威力の武器が、よりどりみどりだ。
ルキナが歯ぎしりをして神を見上げた瞬間、空にひとすじの稲光が走り、雷鳴が轟いた。
やめろ。来るな。来ないでくれ。
コフィン人達の悲鳴に笑みを浮かべたマリエラが、最後の呪文を唱え終える。
神が、聞く者の臓腑が裏返るような異様な叫び声を上げ、その口を引きちぎれんばかりに開放した。
二度目の雷鳴が轟き、空全体がまばゆく明滅すると、西の雲の中に竜の影が浮き上がる。
直後、神の眼窩と口から這い出ていた蛇がいっせいに体内に引っ込む。そうして、一瞬の間を置いて…………巨大な、牙のある口を持った一匹の大蛇が、神の口から空に向かって飛び出した。
全てのコフィン人が、絶句し、おののいた。小さな赤い蛇の群体にまとわりつかれながら、巨大な大蛇はどこまでも身をくねらせて天に昇って行く。
神の巨体をもってしても、いったいどうやって体内に潜んでいたのか分からぬほど、長大な蛇。
その頭が、やがて竜の影が浮かんだ雲の中へ、侵入した。
空を、地を揺るがすほどの、凄まじい咆哮。
ルキナも、ガロルも、戦士達も、その咆哮の主がはるかかなたの空から、地に向かって落ちていくのをまばたきもせずに凝視した。
竜の影が、地平線に落ちると同時に、空が一瞬黒く染まった。辺りが暗闇に包まれ、全ての人々の視界が奪われる。
そこかしこで悲鳴と怒声が上がり、人々が恐慌状態に陥りかけた、その瞬間。
眼がつぶれるかと思うほどの光が、突然世界に満ちた。
ルキナは目をふさぎながらよろめき、転びかけたところを太い腕に抱き支えられた。この腕は、ガロルの腕だ。
何が起こった!? 声を飛ばすが、しかし返事はない。
ガロルの腕が震えているのに気づいたルキナは、周囲で上がる、まるで断末魔のような悲痛な声の渦の中、そっと両手をどけて、世界を見た。
「ひっ……!」
空が、青かった。
灰色の雲は跡形もなく消え去り、真っ青な空間が見渡す限り続いている。
頭上には直視できぬほどの輝きを放つ光球があり、ルキナの白い顔をじりじりと照らしている。
ガロルの腕に赤子のように抱きつくルキナの前で、スノーバ人達が歓声をあげている。何がめでたいのか、涙さえ流している連中もいた。
歓声の渦中で、ユークとマキト、レオサンドラが空を見上げ、目をしばたたかせている。
「これは……驚いたな……あの竜、本当に天候を司っていたのか。いったいどういう仕組みなんだ?」
「これも魔術の類では? 人間以外の生き物にも魔術に似た力を発揮する連中がいると、マリエラが言ってたよ。雲を呼び太陽を隠す魔術をあの竜が使っていたのかも」
「いずれにせよ素晴らしい光景です! ユーク将軍と神が竜を倒した瞬間、空が晴れ渡った! 正に英雄的な絵面です! 暗闇の国に光を取り戻したのだ! コフィン人達もこれには将軍の偉大さを認めざるをえないでしょう!」
レオサンドラが笑顔を向けてきた瞬間、ルキナは腰から力が抜け、ガロルに全体重を預けてよりかかった。
守護神が死んだ。世界が変わってしまった。その現実に、他のコフィン人達の中にも膝をついたり、地に倒れる者が出ている。
ユークが、その様子にフンと鼻を鳴らし、小声で何かをつぶやいた。
その声はルキナには届かなかったが、唇の動きで何を言ったかは分かった。
『未開人どもめ』
ユークが背中を震わせて笑っているのを見ながら、また、サンテの感情を殺した視線を受けながら。
ルキナは拳を握り締め、自分の腿に打ちつけていた。
「――――なに、これ」
真っ青な空を前に、アッシュが蚊の泣くような声で言った。
彼女の足元にはモルグの顔を模した鉄兜が転がっている。
アッシュは、竜の影が落ちて行った方角に手を伸ばし、指を震わせながら、もう一度「何なの」と喉を震わせる。
椅子から立ち上がったダストが、無言でアッシュの背に近づき、鉄兜を拾い上げようとした。瞬間アッシュが振り向き、肩をつかんでくる。
顔を引きつらせたアッシュが、悲鳴に近い声で叫んだ。
「何なの!? 何でいきなり空が晴れるの! 雨が降るんじゃなかったの!? 竜が……モルグが雲から現れるんじゃなかったの!?」
「……」
「落ちちゃった……落ちちゃったよ……ねえ……落ちちゃった……」
繰り返すアッシュを、ダストは静かに見下ろす。
震える娘の顔を両手ではさむと、彼女の額に額をつけ、小さく、告げた。
「コフィンの信仰が、終わったんだ」
アッシュが、妙な声をもらした。絶望に染まったその顔を、ダストは見つめ続ける。
「モルグは死んだ。殺された。だから、空が、晴れた……」
大声で泣き出すアッシュの顔を、ダストはじっと、目に焼き付けるように、凝視し続けた。




