百二十二話 『橋上の決闘 後編』
上転していた眼球が、ゆるゆるとまぶたから瞳を下ろしてくる。
サビトガと視線が合うや「馬は消耗品」と返すオーレン。その目元と唇に、得体の知れないしわが走った。
「馬賊なら奪って乗り潰すのが当然だろ。何言ってんの、あんた」
「すでに調教された他人の乗馬を奪い、乗り換えては悪事を働く一族。そのための優れた体術、窃盗術か。自分の馬を育て世話する気など、さらさらないと」
「それが『賊』さ。文句あんの?」
「呆れたものだ。そんな程度で間抜けだの三流だの、偉そうな口を利いていたのか」
起き上がろうとするオーレンに、サビトガが顔を寄せる。陰に沈んだ表情に、あご骨の白と眼光がぎらっと閃いた。
「獣としての馬を飼い慣らし、乗用化することがどれほど困難か分かるか。馬の力は人間の数倍、時には狼や熊ですら踏み殺す。人の下に敷けていること自体が奇跡に近い生き物だ」
「……あのさ、僕、まだ『参った』って言ってないんだよね。勝ち誇って説教するのは」
早い、と、言いざまの目潰しを喰らわせようとしたオーレンの指が、サビトガに即座に握り取られた。めきめきとひしゃげゆく人さし指に顔をゆがめるオーレンへ、サビトガは構わず声を続ける。
「馬はお前が思っている以上に強く賢い。脅しや暴力で支配してくる人間には憎悪を募らせ、一時は背を貸しても必ず反逆し、その命を脅かす。人を受け入れる馬を作るのに、調教師や飼い主がどれほど心を砕いていることか」
「こ……この……!」
「その労苦の結晶としての乗馬を横からかっさらい、ろくに世話もせず乗り潰すお前達の生業自体はまだ良い。お前の言う通り、賊とは本来そういうものだろう。だが」
力の入らぬ足で蹴りを放とうとするオーレンが、ただ体勢を崩し石畳を滑った。彼の指をへし折れる寸前まで圧したサビトガが、ひきつる馬賊の顔を覗き込む。
「所詮は乗馬文化、騎乗文化に寄生して悪事を働いているだけの者が、物事の重大性も意味も理解せず愛馬詐欺を働くなど許しがたい。
お前に嵌められた異邦人達がなぜ言葉も通じぬ『馬畜生』に情をほだされたか、分かるまい」
「……!」
「一度人間に心を許した獣は、もう二度と野生には戻れんからだ。人間が乗用するために歩き方や習性を変えた馬は、もはや馬ではなく『乗馬』という生き物なのだ。野生の馬の群にも還れず、背に乗せるための人間を探してさまよう乗馬を、人はその在り方をゆがめた責任を意識し、情を向け、手を差し伸べる。
それが馬と多少でも関わったことのある人間の、本来備えておくべき『常識』だ」
動物愛護や気まぐれで動いているとでも思ったか。
サビトガに指を固められたまま、もはや起き上がることもできないオーレンが、肩で息をしながらそれでも「折れよ」と口角を吊り上げた。
「死んでも降参しない」と歯を剥く彼に、サビトガは数秒の間の後、拳を叩き込む。
鼻面を打ち抜かれたオーレンが、かろうじて折れずに解放された指で空を掻き、石材の上に昏倒した。
静寂が、大橋を包む。サビトガは打撃を繰り出す際に詰めた息をそのままに、オーレンの差し出されたひざを無造作につかんだ。
外した関節の位置を整え、一気に押し込み、骨を入れる。ごきりと音が響くと、ようやく息を吐き出し、顔を伏せた。
「馬鹿のくせに、クソ度胸だけは大したものだ。言質を取り損ねた……」
「なぁに、文句は言わせねえさ。誰がどう見たって、勝者は明らかだ」
レイモンドが口を挟むや、ゆったりと橋のきわから離れる。橋上をただ一人歩く彼が、サビトガとオーレンのわきを通り過ぎ、少女と、集落の住人達の方へと向かう。
木苺の瓶をお手玉しながら、異邦人の長は満足げに含み笑いをもらし――。思い出したように振り向き、「名前は?」とサビトガに指を向けた。
サビトガが応えると、「なるほど」と再び前を向く。割れる人垣をゆうゆうと進みながら、レイモンドは高く勝者の名を宣言した。
「期待の大甘ちゃんだ。同志諸君――――せいぜい歓迎してやってくれ」
上機嫌なレイモンドがサビトガの荷物すら忘れて去ってゆくと、やがて無数の視線が再びサビトガに集まる。
駆け寄って来る少女の肩を借りながら、サビトガは橋上にあぐらをかき……。深く息をついて、空を仰いだ。




