二十七話 『震撼の朝』
「調教師ダカンは、無事にドゥーで国境を越えたか?」
王城の廊下を歩くルキナの問いに、越境計画の発案者である若い騎士は硬い表情で答える。
「スノーバ兵に気取られる危険を避けるため、見届け人はつけてくれるなとダカン自身が申しましたので……彼を信じるほかないかと」
「セパルカへの書簡には、我が国の窮状と神にまつわる関連を記しておいた。スノーバ軍がセパルカへ迫った際には、我が国はもう倒されたものと考えて欲しいとも」
若い騎士が、前を歩くルキナの背から、隣のガロルの顔へと視線を移す。
廊下を行く三人は鎧を鳴らしながら、王城の北側へと向かっている。
ルキナが前を睨んだまま、歯の間から息を吹き出した。朝の王城は薄暗く、窓の外では雲が風に押し流されるように動いている。
廊下の先の大扉に近づくと、すでにそこにひかえていたナギが、部下の侍女と共に扉を押し開ける。
ルキナは扉をくぐり、窓一つない暗い広間に踏み込んだ。
無数のろうそくが燃えるその部屋には大きなコフィンの国旗が飾られており、その足元に、鉄でできた棺がある。
きょろきょろと室内を見回すルキナ。彼女のわきから進み出たガロルが、鉄の棺のそばに膝をつき、ふたを持ち上げる。
棺の中に横たわり、目を閉じていた老婆に、ルキナが眉間にしわを寄せて声を上げた。
「魔術管理官ロドマリア! 国王ルガッサの棺に何をしている!?」
「ああ、お許しください姫様。ルガッサ王を偲んでいたのです。この棺に、骨のひとかけも入れられなかったあの方の悲劇を思うと、いてもたっても……」
ガロルが老婆に手を貸し、棺から起き上がらせる。
ルキナは老婆を軽く睨んでから、背後のナギに「閉めてくれ」と声を放る。
扉が閉められると、老婆が改めてルキナに頭を垂れ、挨拶をした。
「ルキナ様、このたびはガロル戦士団長を我が家につかわせられ、私などを王城にお呼びくださり光栄至極にぞんじます。なんでも、古代魔術に関して御質問がおありとか」
「うむ。最も古き時代の魔術に関して聞きたいことがある。王国内での魔術の知識、技法の管理を任された魔術管理院の長ならば、失われた古代魔術の知識もあろうかとな」
「光栄、光栄にございます。ただ、魔術管理院などと大仰な名前を与えられてはいますが、現状は古き魔術関連の書物や遺物を秘蔵しているだけの、資料屋のようなものでございますよ。管理官も私のほかには六名しかおりませんし。魔術の歴史と知識を絶やさぬよう、守っているだけの組織でして」
「お前は魔術を使えるのか」
ルキナの質問に、老婆は両手を広げて首を振った。
「いえいえ、使えるなどと言うほどのものではありません。ちょっとそこのろうそくの火を消したり、強めたりする程度のことはできますが」
「十分使えるではないか」
「ルキナ様、火を消したければ息を吹きかければ良いし、燃え上がらせたければ枯れ草でもくべれば良いのです。その程度のことに魔術的な儀式や呪文を用いるなど、馬鹿馬鹿しいではないですか。わざわざ手間を増やすようなものです」
老婆の言葉に、ルキナはあごに手をやって目を細める。
細い骨のような手をしきりにもんでいる老婆に、ルキナはわずかに潜めた声で訊いた。
「魔術は大きな効果を得るものでなければ使う意味がないというわけだ。ときに、ロドマリア。水銀を魔術で固めて巨大な扉にして、何百年も道をふさがせることはできるか?」
「できますよ」
平然と即答する老婆に、ガロルと若い騎士が顔を見合わせる。老婆はルキナの前で人さし指を立て、さも当然というふうに語った。
「金属、鉱物を溶かしたり固形化させるというのは、魔術の中では比較的ありふれたものです。水を蒸発させたり凍らせたりする魔術と原理は同じですからね。自然界でも火山の噴火などによって、石が溶けたり自然にかたまったりと形態を変化させることはあります。
自然現象で起こりうる変化なら、たいがいは魔術で再現できますよ。もっとも水銀から意匠をこらした芸術品のような扉を作ろうと言うのなら、かなりの手間と修練が必要ですがね」
「では、扉を『不滅の物体』にすることは可能か?」
老婆が、きょとんとした。ルキナは腕を組み、言葉をついでゆく。
「ただの剣を、敵の鎧をすり抜け、肉体だけを裂く魔剣に変えることは? あるいは他の魔術の効果を打ち消す、対魔術の道具をつくることは? そんなことのできる魔術が存在するか?」
「それは……魔術のルール上では、かろうじてできないこともありませんが……」
老婆が困惑したように眉根を寄せ、白い髪をかきながら床を見る。
「物体を変質させる魔術は、つきつめれば自然物を支配する技術です。本来自然界が定めた物の性質を、無理やり歪ませてしまうわけで……常温で鉄を変形させることは、つまり真冬の氷を蒸発させるようなもので……」
「すまんが、分かりやすく説明してくれ」
「……つまりですな、魔術自体に自然の摂理、物理を無視するという発想があるわけです。ものの形を術者のいいように作り変えるわけですから。だから炎の勢いを調節したり、水を凍らせたり、金属塊を剣や扉に変えることができるわけですが」
老婆が顔を上げ、ルキナ達を見る。
「しかし、剣に特定のものだけを斬らせたり、扉に不滅不壊の強度を与えるとなると……これはただの魔術とは呼べません。おそらく歴史上、最も優れた魔術師が何ヶ月もかかりっきりでなければ実現できない、大魔術の部類です」
「大魔術……」
「そうです。たとえば魔王ラヤケルスが使ったとされる、国中のコートリの生態を操作する毒の雨の魔術。あのレベルの、神をも恐れぬ冒涜の精神がなければできぬ所業です。
おそらく魔術を使った者も、ただでは済みますまい。あまりに絶大な効果を生む魔術は、その効果の反動が必ず術者やその周囲に返ってくるものです」
ガロルがわきから「反動とは、具体的には?」と声をはさむ。
老婆は目を閉じ、低く声を落とす。
「創造神気取りで自然物を変質させた魔術師は、自然を変質させたぶん、己の肉体と精神も歪んでしまいます。寿命が縮むかもしれませんし、正気を失うこともあり得ます。あるいは、人ならざる姿に変わってしまうことも……」
「……優れた魔術師が命を賭けなければ、できぬということか。逆に言えばそれだけの覚悟があれば、不可能ではないと」
ルキナが眉間に指を当て、息をつく。老婆に目を向けると、後は一気に本題に入った。
「スノーバの神に、古代コフィンの魔術がからんでいるらしい。少なくとも神は魔術で操作され、スノーバ軍のために戦っている。ロドマリアよ、単刀直入に訊く。魔術の専門家としてお前はあの神を、どう見る?」
「……分かりません。あのような恐ろしいものは、見たことも聞いたこともありません。魔術で操られている……? 古代魔術の文献にも、そのような魔術の記述は……」
老婆は顔を両手でこすり、そのまま両頬を押さえて考え込む。
やがて首を振ると、ルキナに充血した目を向けて言った。
「たとえば、すでに命を失った屍や、木でできた人形を操ることは容易です。本来意志を持たぬ物体を動かすことは魔術の得意とするところですから。コートリなどの植物も、多少難易度は上がりますが操ることはできます。
しかし……思考能力を持つ動物や、生きた人間を一方的に操るのはほぼ不可能です。魔術は対象に呪文という形で意志や命令を伝えるものですから、相手が命令を拒めば成立しません。一定以上の知能のある生物を完全支配する魔術はないのです」
「……では、あの神は……」
「神が、仮に昆虫程度の知能しか持っておらず、かつ限りなく物体に近い存在ならば操る術もあるかもしれません。あるいは高い知能を持っていても、スノーバ軍や神喚び師に好意を抱いているとか……ただ、そうなると私にはもうアレが何者であるかなど想像もできません。とても、自然界に存在するとは思えない……」
ルキナは老婆の話を聞き、厳しい顔のまま、やがて深くうなずいた。「よく分かった」と鎧の隙間に手を入れ、小さな麻袋を取り出して老婆に差し出す。
「ラズオネの種だ。パンにして食べてもいいし……余裕があれば土に植えて、育てるがいい。遠い所をご苦労だった」
「これは……もったいのうございます」
「最後に、正直に教えてほしい」
麻袋を懐にしまう老婆に、ルキナがちらりとコフィンの国旗を見ながら、訊いた。
「我が国に伝わる、古代の魔王と勇者の伝説……あれは、まごうことなき真実なのか?」
「……何をおおせられます? かの伝説はコフィンの正史の碑文に、はっきりと記されて……」
「悪しき魔王を正しき勇者が打ち倒した。そう碑文は語るが……ならば何故、魔王ラヤケルスの名が正確に後世に伝えられ、勇者ヒルノアはただ『勇者』とだけ碑文に記されているのだ?
英雄譚は、英雄の名前をこそ強調すべきものではないか。それを、正史は勇者の名よりむしろ魔王の名を……勇者の偉業より、魔王の悪行をより伝えようとしているように思えるのだが」
老婆が、じっとルキナの顔を見つめた。
強い意志をうかがわせる真っ青な王女の瞳に、老婆はやがて目をそらし、深々と頭を下げて答える。
「歴史は、しょせん勝者が己の保身のためにつづるものでございます。その意味では魔王も、勇者も、ともに歴史の勝者ではなかったということです」
「……古代コフィン人にとって、勇者ヒルノアは真に英雄ではなかったと?」
「私はコフィンの存続を未だ願っております。ゆえにコフィン王国の歴史に泥を塗るようなことは言えません。
……ただ……かの勇者は、古代コフィンの王と民の名誉を守るために用意された刺客であり、善玉なのです。魔王もまた、王と民の罪を隠すために利用された、悪玉なのです。
伝説は人類の犯した歴史的大罪を隠すために、あえて大仰に伝えられたより小さな事件……」
首を傾げるルキナに、老婆は頭を下げたまま一歩下がる。
その喉から、ぐるぐると獣のうなるような音がもれた。
「真に悪しきは毒の雨の魔術……屍を甦らせる魔術はおぞましくとも…………誰を殺すわけでもない……」
「? 何だと?」
「コフィン王国には輝かしい未来が待っている。私はそう信じておりますよ、ルキナ王女様」
頭を下げたまま、それっきり何も語ろうとしない老婆を、ルキナはしゃくぜんとしない面持ちのまま見送った。
「――少なくともサンテの話は完全な作り話ではないようですね。神を含む勇者の遺産は、魔術的見地からも存在しうるわけだ」
若い騎士の言葉に、ルキナとガロルが同時にうなずく。
廊下の窓際で顔を突き合わせている三人に、ナギが清水の入った杯を運んで来ながら声を向ける。
「サンテがよこした元老院の密書の文字も、確かに我が国の議員の筆跡でした。戦前に元老院から提出された公文書の中に、同じ筆致のものがいくつか」
「ガロル殿、元老院の議場の警備は万全ですか? 議員は使者を使ってスノーバと密通していたのです。議員を押さえても、使者の役を担っていた者は未だ野放しのはずですよ」
「ぬかりない。議場は完全に封鎖されている。使者とて飼い主の命令がなければ動きようがなかろう」
みなの言葉を聞きながら、ルキナは窓の外を眺め、目を細めた。
本来身内であるはずの元老院がコフィンを裏切り、敵であるはずのサンテが共闘を要請してきた。何と因果な、とは思うが、希望がないわけではない。
サンテの言葉にある程度の真実がみとめられるなら、彼女が提示してきた計画にも期待が持てる。
「ガロル、古代文字の辞書は見つかったのか?」
「書庫に、やはりダストの作成した写本が見つかりました。ロドマリアにも碑文の解読を手伝ってもらおうかと思ったのですが、どうも極度の老眼で文字を読めぬようなので、騎士団と貴族の識者に協力してもらっています」
「なるべく急いでくれと伝えてくれ。今のところ神に関連する手がかりはサンテの碑文しかない。反撃の余地があるなら一刻も早く行動に移すべきだ」
御意、とガロルが返事をした瞬間、廊下全体がどぉん、と震撼した。
壁やそれぞれの体につかまるルキナ達が、さらに窓の外から迫る風の音に、一瞬にして顔を引きつらせる。
巻き起こる暴風、人々の悲鳴、巨大な影が窓の外に落ち、数秒後に城門の方から再び凄まじい衝撃と地鳴りが響く。
割れる窓からルキナとナギをかばいながら、ガロルが「おのれ!」と歯を剥いた。
「言ったそばから……!」
「ルキナ様!」
若い騎士の叫ぶ声を背に、ルキナが城門の方へと駆け出す。廊下を曲がると兵士や侍女達が床に膝や背をついていて、何人かが倒れてきた物に当たったらしくけがをしていた。
後方から駆けて来るナギにけが人の介抱を命じると、ルキナはガロルと若い騎士を伴って城門へ急ぐ。
大扉を開け外に出ると、門番や戦士達の背の向こうに、生白い巨体がたたずんでいた。
暗い眼窩や口、背中から空中に伸びる赤い蛇。
闇色の血液をしたたらせる神の肩の上に、自身の体を赤い蛇で固定したマリエラが乗っている。
マリエラはルキナを見つけると口端をにぃ、とつり上げ、返した右手の人さし指をくいくいと曲げ伸ばしした。
「将軍のお呼びよ、子猫ちゃん。今日は手下を好きなだけ連れて来ていいそうよ」
顔を見合わせる戦士達の後方から、ルキナは不遜な神喚び師の顔を、燃え上がるような怒りの目でにらみつけた。




