百十五話 『悪意の影』
がさがさという音が、天を突く巨木を回り込んでくる。
それぞれの武器を構え、警戒態勢に入るサビトガ達。相手方の足取りは明確な敵意を感じさせるものではない。気配を隠さぬ足音が、堂々とこちらに向かって近づいてきていた。
人数は、一人……いや、二人……?
足音の響きと間隔から推し量ろうとしたサビトガが、しかしいまいち確信を持てず眉をひそめた。
落ち葉を踏む足は確かに四つ以上ある。だがそれらが立てる音には、ほとんど差異がなかった。体重や歩き方の違いが感じられない。全てが同一人物の足音のようだった。
魔の者の異形の姿が、否応なく脳裏に浮かび上がる。
異様な足音に槍を強く握り締めるサビトガが、しかし直後に巨木の陰から現れた相手の面構えに「あっ」と声を上げ、脱力した。
「サビトガ! 馬だ!」
少女がナイフを手にしたまま、痩せた白馬を指さす。
落ち葉を踏みしめていたのは、四つ足の馬だったのだ。
サビトガは他愛のない答えを示され、ついがりがりとこめかみを掻きながら、となりの少女へうなずいた。
「……馬だな。誰かの乗馬だろうか」
「ワタシの知らない馬だぞ。ずいぶん年を取っている。ひょっとしたら十年近く前に来た異邦人の持ち物かもしれない」
のそのそと二人に寄って来る白馬が、ヤニだらけの目を細めて鼻を鳴らした。不用意にその顔をなでようとする少女に、サビトガがとっさに「よせ」と声を上げる。
「馬は正面からなでてはいけない。目が横向きについているから前が見えにくく、視界の外から迫る指を怖がるんだ。噛みつかれたら、指がなくなるぞ」
「どうやって触るのが正しいんだ?」
「ななめ前方からゆっくり近づいて、肩の外側を手の平でなでるんだ。指先やとがったものは近づけないほうがいい」
少女がナイフをしまい、言われたとおり慎重に白馬に寄る。サビトガは馬の様子をうかがいながら、槍先を地面に向けて少女の背後についた。
おとなしい馬だ。痩せてはいるが体高が高く、両目と口の部分に黒いぶちがある。
髑髏のペイントをしたような顔だった。
「手触りは良くないけど、あったかいな。けっこう人慣れしてる感じだ」
「背中に鞍を載せていた跡がある。やはり異邦人の持ち込んだ馬なんだろうが……飼い主とはずいぶん前にはぐれたらしいな」
サビトガは髑髏馬の伸び放題になったたてがみや、尻尾に視線を当てる。
長らく手入れをされていない乗馬は、ひづめもひび割れて憔悴し切っているようだった。
助けを求めるような弱々しい視線をくれる馬に、サビトガは反射的に目元をゆるめながら、その首元を愛撫してやった。「連れて行こうか」とつぶやくように言うと、少女がこくこくとうなずいてみせる。
「自分から人に寄って来るような馬は、もう野生の獣じゃない。人の営みの中に入れてやるべきだ。異邦人の集落に連れて行けば、新しい飼い主も見つかるかもしれない。
……もっとも、こんなくたびれた年寄り馬を引き取ってくれるようなヤツは、かなり稀だろうけど……」
「そうでもないさ。真っ当な馬乗りなら、こういう馬ほど放っておけないものだ。馬の価値を知っている者ほど、はぐれ馬や他人の馬をぞんざいには扱わない。人を乗せて生き、老いた馬には、相応の敬意を払う。
馬乗りの矜持とは、そういうものだよ」
少女が、ふうん、と首をひねる。
いまいちピンとこない様子の彼女に、もう少し言葉を継ごうかと考えた。その瞬間。
サビトガはそれまでゆるめていた目を、鋭く、一気に吊り上げた。
手入れのされていない馬。その口元に、わずかに何かが強くこすれた跡を見つけたのだ。
質の悪いざらついた鉄が、皮膚を削いだ跡。いやがる馬の頭を力づくで引き回した跡。
つい最近、馬具である馬銜を使用した形跡が残っていた。
意識が、馬の足音が突然聞こえ出した巨木の方へと向く。長い鎖と棘付きの馬具を垂らした人影が、いつの間にか木陰に立っていた。
槍先を返そうとした瞬間、人影が飛び出してくる。髑髏馬の腹を蹴りつけながら騎乗する人影。悲鳴と共に後足で立ち上がる馬。
はじき飛ばされそうになる少女を受け止めたサビトガの荷物袋を、馬具つきの鎖がかっさらっていった。
いななく髑髏馬が、森の中を駆けて行く。
言葉を失う少女を抱きながら、サビトガは槍を握り締め――しかしどうすることもできず、奥歯を噛み鳴らした。
「やられた! あの馬の姿は偽装だ! 自分の馬に同情させて、荷物をかすめ盗りやがった……!」




