百三話 『雷鳴の君』
「私はお前に甘えていたのかもしれない」
馬屋の柵をくぐった瞬間、その声はサビトガの真正面から飛んできた。
馬を放牧するためのせまい運動場の闇に、ぼっ、と音を立てて灯火が浮く。
サビトガはシブキと苺之妃の肩を放しながら、よろりと灯火の主へと近づいた。
「……確かに、甘ったれだな。自分の手を汚そうとはせず、俺にばかり不義を遂げさせようとしてきた」
「だからお前に軽蔑された。元は同じ軍に居た同胞だったのに……老いて若者に蔑まれるのは、存外こたえる……」
「ならばこれ以上軽蔑させるな。俺はこの国に残された真に貴い方々をお助けする。邪魔立てすれば、首をへし折るぞ」
灯火を掲げる将軍に手を伸ばした瞬間、サビトガの陶器の顎骨を、鉄の鏃が音を立てて砕いた。
衝撃に頭が揺れ、一瞬気が遠くなる。倒れかけた体を、苺之妃の柔らかい体が背後から支えた。
闇に沈んだ馬屋に伏兵が居る。将軍が気に障るほどに悲愴な顔で、言葉を吐いた。
「覚悟が決まった。他人ではなく、自分自身を汚す覚悟が。身も心も、これまでの人生の輝きも、全てを泥に埋める覚悟が。……覚悟を決めた軍人は、何よりも疾い。後宮で騒ぎが起きた瞬間、犯人が誰で何を目論んでいるか、すぐに分かったぞ」
「貴様……!」
「親衛隊の馬鹿どもは功をあせって残らず後宮へ向かい、王宮の庭はがら空きだった。庭に居た灯火兵は、全て私の子飼いの部下だ。他の道を少数で封鎖し、わざと正門への道を開いておいたのだ。逃げる者にとっては、暗闇こそが順路だ。お前は闇を自分で渡ってきたつもりだろうが、その実まんまと私に誘われていた」
サビトガは頭を振り、矢の飛んで来た方向へと目をこらす。だが伏兵は軍の精鋭らしく、鉄の光をこぼすようなまねはしなかった。
敵の位置も、数も分からない。いつしか身を支えてくれていたはずの苺之妃が、サビトガにすがりついていた。彼女の心臓の鼓動が、明確に腕に伝わるほどに早まっている。
不意にシブキがサビトガの前に出ようとした。とっさに腕をつかまえるも、シブキは将軍を睨み、子供とは思えぬ喝を吐く。
「その軍才をなぜ世が乱れる前に使わなかった! 人が殺され法が蹂躙され、国が叩き壊される前に起つべきではなかったのか!!」
「言葉もございません、シブキ様。しかし王子同士の争いが避け得ぬことであれば、一軍人の才などしょせん時代の添え物。世を救う武器になどなりませぬ」
将軍が灯火を、おもむろにシブキへと差し出した。王子の顔に飛ぶ火の粉に、サビトガが無理やりシブキの腕を引いて背に守る。
将軍が「どうする」と、どこまでも低い声で問うた。
「お前達はすでに囲まれている。軍に残った精鋭二十人……いずれも私の秘蔵っ子だ。王室処刑人サビトガと、互角にやり合える猛者ばかりだ」
「何人引き連れていても同じだ。お前を叩きのめし人質に取れば良い」
「泥に埋まる覚悟はできていると言ったはずだ。部下達は私に構わず戦う。そして一度開戦すれば、彼らが最初に狙うのは苺之妃様だ」
腕に押し付けられた乳房が、びくりと震えた。鬼の形相をさらすサビトガに、いつしか悲愴な表情を消した将軍が同じ鬼の顔で続ける。
「苺之妃様が血だるまになって転がれば、次はシブキ様を狙う。お前は最後だ、サビトガ。守るべき者を皆殺しにされた上でこと切れるのだ」
「何が覚悟だ! 人間性をドブに捨てただけだろうが!」
「否と言うならば今度こそ私の要請に応えろ。最後の取り引きだ」
気炎を吐こうとしたサビトガに、しかし将軍は一瞬だけ人の顔に戻り、雨音に混じるような、静かな声で言った。
「投降しろ、サビトガ。お前だけだ……。お前だけでいい。お前が自ら縛を受ければ、シブキ様と苺之妃様は逃がしてやる」
「! 何だと……?」
「シブキ様の処刑は、もういい。事情が変わったのだ。私はお前にさえ投降してもらえれば、目的を果たせる」
事態を呑み込めずにいるサビトガに、将軍は灯火を高く掲げ、空を掻くように大きく振るった。すると後方から蹄の音が近づいて来る。
柵の向こう側に、息を呑むような素晴らしい青毛馬が立っていた。武装した兵士にまたがられたそれが、訓練を受けた軍馬特有の冷静な眼差しをサビトガ達に注いでくる。
「私の馬だ。前の戦争で先王から下賜された。騎手は私の、一人息子だ」
将軍が灯火を足元のぬかるみに捨てた。ぶすぶすと泥を煮立たせる火を、老いた目が見つめる。
「……私の愛する者達が、シブキ様と苺之妃様をお連れする。ミテン様の恐怖が未だ伝播し切っていない辺境の港町へ行けば、他国へ向かう船にも乗れるはずだ。亡命を受け入れてくれる同盟国へ、御二方を逃がせる」
「……」
「信じろサビトガ! もはや他に道はない! お前が拒否すれば私は……前言通りに全員を殲滅する!!」
サビトガは苺之妃の鼓動を感じながら、シブキを見た。視線が重なった瞬間にシブキが「よせ」と首を振る。
懇願じみた、弱々しい声だった。
「駄目だ、サビトガ。約束したではないか。地の果てまで供をすると……一緒に来てくれると、言ったではないか」
「……」
「やめてくれ……私を……私達を……」
「シブキ様」
申し訳ございません。
顔をゆがめるサビトガに、シブキがとっさに抱きついた。どこにも行かせまいとする小さな手を、サビトガはしかし、大人の手で引き離す。
苺之妃の涙が腕を熱く濡らす。シブキが意味をなさぬ声を雨音に混ぜる。サビトガは将軍に、殺気にまみれた声音で言った。
「投降する。約束は命に代えても守れよ」
「全ての尊きものに誓おう」
拳と手の平を打ち合わせ、軍人の礼を示す将軍。彼の息子が馬を柵に横付けし、片手を差し出してくる。
サビトガはシブキの背を抱え上げ、苺之妃に託した。未だ嫌がるシブキを抱き、苺之妃が長い黒髪を頬に張りつけながら、まぶたを震わせる。
「最初にあなたを化け物と呼んだこと、どうか許してください」
「良いのです。どうかお体にお気をつけて」
「……あなたも、どうか……」
言葉に詰まる苺之妃が、続きを言わぬまま背を向けた。彼女と騎手に馬上へと上げられるシブキが、サビトガに手を伸ばしながら叫ぶ。
「サビトガ! 私は……私はお前に救われたのだ! 今夜のことだけではない! お前が居てくれたから今日まで世に絶望せずに済んでいた! お前は私の……!」
遠くで雷鳴がとどろく。雨の闇夜に、天から閃光が降り注いだ。
苺之妃を引き上げる騎手のひざに座りながら、シブキは、ひどく苦労して、笑みを浮かべようとしたらしかった。
「お前は私の……『騎士』だ……」
サビトガは、きっとこの先二度と再会できぬだろう心の主君を見つめながら、小さく、唇を吊り上げて見せた。
シブキが顔中をくしゃくしゃにして泣く。雷鳴が地を揺らす。騎手が手綱を握り、将軍を見る。
将軍がうなずく。馬が発進する直前、シブキが雷鳴に負けぬほどの大声で叫んだ。
「明けぬ夜はない! どんな暗い時代も必ず終わる! そうだなサビトガ!! 我々は必ずまた会えるな!?」
騎手に踵を入れられた馬が、大きくいなないて地を蹴った。闇の地平線へと突き進む馬上で、シブキがサビトガの、本当の名前を呼んだ。
「生きよ! フクロウ! このシブキがお前のために正道を取り戻す! 何年かかっても、何十年かかっても必ずこの国を救って見せる! その時こそ、お前は私に仕えよ!
死道の処刑人ではなく……正道の『フクロウの騎士』として仕えよ!!」
サビトガは、雷光に導かれるように遠ざかってゆく青毛馬に、無意識にひざをつき、平伏していた。
かつて歪んだ首の骨をかばい、いつも頭を傾けていた自分を、院長の情婦は夜の鳥に例えた。
そうして名づけられた本名を人々はからかい、いぶかしみ、蔑んだ。孤児院上がりは畜生の名しかもらえぬと、万人にあざ笑われた。
だがそれらは今、全てたわ言になった。誰よりも高貴な人が、約束どおり、敬愛の念でもって名を呼んでくれたからだ。
フクロウの名は、今、この時のために在ったのだ。サビトガという処刑人としての名の裏に隠し続けてきた本名は、最後の最後で価値を得た。
何にも代えがたい、至高の価値を得たのだ。
「……俺は、騎士の名誉を受けた。それは今のこの国には二つとない名誉だろう。古来よりパージ・グナに騎士はいない……マガンザラやブジェナといった、外国の称号だからな」
身を起こすサビトガに、闇の中から兵士達が近づいてくる。将軍を振り返り、サビトガは歯を見せて笑った。
「あの方は新しい国を作るつもりでおられるぞ。ミテン失脚後のパージ・グナには、騎士がいるらしい。俺はその第一号だ」
黙っている将軍に、サビトガは再び顔を前に戻しながら、高らかに言った。
「捕縛しろ! 軍人ども! 己が企みに未来の王の騎士を利用するを、恐れぬのならなッ!!」




