九十九話 『脱出開始』
処刑人の吐く気が王子を撃ち抜き、その目に星の光を生んだ。
時代に挑む才覚と道理を持つ人が一握の闘志を取り戻したならば、後はその御身を地獄の外に誘うだけだ。
サビトガは天井から指を下ろし、シブキに差し出す。血に塗れた手を見つめるシブキに、サビトガは「生きてください」と静かに声を放った。
「それが、きっとあなたを愛した人々の、本当の願いです。この国にあっては絶望的な願い。しかしあえてその絶望の中を泳ぎ、活路を探しましょう。
このサビトガが、地の果てまでお供いたします」
シブキはその言葉に、一度だけ唇を噛み、目を伏せると――。
すぐに星の光を宿した面を上げ、血まみれの手を力強く、しっかと握り締めてくれた。
いつしか、建物の外から大勢の気配が迫って来ていた。敵の注意を引きつけてくれていた忍ぶ者の工作がばれ始めたのだ。
サビトガはシブキと苺之妃を畳から立ち上がらせると、衛士達の死体をまたいで部屋の外へと向かった。
廊下にはサビトガが力任せに斬り捨てた衛士達の死体が、さらに山と散乱している。袖で目を覆う苺之妃を、シブキが懸命に導き連れてくる。
サビトガは後宮の外堀に面した露台に向かい、雨戸を開けて外の様子をうかがう。わずかに勢いの弱まった雨の中、衛士達のものと思われる灯火の光がいくつか揺れていた。
この数なら、最悪全てが向かって来ても斬り伏せられる。灯火の中にウダイ並みの猛者が混じっていないことを祈りながら、サビトガは散乱する衛士達の死体から丈夫な革帯や剣の吊るし紐をかき集めた。
強度を確かめながら一本の命綱を結び上げるサビトガに、苺之妃が袖の間から怯えた目を覗かせ、「まさか」と声を漏らした。
「その綱で私達を吊るそうと……?」
「一階の出口から中庭に出れば、敵に囲まれます」
「ああ、サビトガ。私には無理です。それにどうせあなた達について行っても、女の身では足手まといになります。どうか……どうか私を置いて行って……」
「他の寝所に居られた妃方ならいざ知らず、目の前でシブキ様を奪取されたあなたを待つのは衛士達による拷問と処刑です。
本来ならシブキ様の母上をもお連れする予定だったのです。その『枠』にあなたが入っても、何の問題もありませんよ」
完成した命綱を腰に回してくるサビトガを、苺之妃はぽろぽろ涙をこぼして見た。そんな彼女にシブキが同じように命綱を着けられながら、「大丈夫ですよ」と優しく声をかける。
「私がしっかりとお手を握って支えますから。ミテンの差し金とは言え、あなたの寝所に転がり込み御迷惑をおかけした責任は取らせて頂きます」
「シブキ殿……」
「生き延びて、いつか正道が甦ったこの場所に三人で戻りましょう」
苺之妃と手を握り合うシブキの体に、サビトガはぎゅっと命綱を固定する。万が一にもすっぽ抜けぬよう両わきにも綱を通し、そして綱の先端を露台へ運ぼうと雨戸をくぐった。
瞬間、サビトガの頭に死の気配が迫る。反射的に背後に跳ぶと、サビトガのいた場所に三つの穂先を持つ白銀の三叉槍が突き刺さった。
シブキ達を廊下の奥へ逃がしながら、サビトガは血塗れの刀を構える。雨の露台に、金色の衣をまとったまがい物の忍ぶ者が降り立った。
並外れた巨躯を持つ敵は、長い三叉槍を片手で無造作に引き抜くと、そのままずんずんと屋内に侵入してくる。光り輝く金粉まみれの衣の頭部には、紫水晶を削り出した鬼の仮面が載っていた。
忍ぶ者がまとうべき闇を拒絶するようなその装いに、サビトガの両目がきりきりと吊り上がる。侮辱はもうたくさんだった。ミテンの世を成す俗悪は全て斬り捨てる。
「邪魔だぞ。下郎」
殺意を放つサビトガに、黄金の敵が猛牛に似た咆哮を上げて襲いかかる。柱のような槍が振り回され、廊下の壁と床を削りながらサビトガの顔に迫った。
姿勢を低く、顎骨を床すれすれに下げてかいくぐる。敵がすぐに槍の穂先を返し、石突を放った。その一撃を床を転がってしのぐと、サビトガは槍の柄をたどるように跳躍し、斬撃を繰り出した。
紫水晶の仮面を、刀が折れながらに断ち割る。鮮血を噴き上げて叫ぶ敵の喉を、サビトガは折れた刃の断面でさらに一撃した。
巨躯が、ごぼごぼと血の泡をまき散らしながら倒れる。痙攣する敵の首に素早く命綱を巻きつけると、サビトガはそのまま黄金の体を露台へと引きずった。
露台の木製の手すりに巨躯を固定し、シブキ達を呼ぶ。下の様子をうかがいながら命綱を握り、サビトガは「行きましょう」と声を上げた。
「お二人を先に降ろします。地上に着いたら綱を切り、身を低くして待っていてください」
折れた剣を渡されたシブキが、こくりとうなずいて苺之妃の手を握る。
露台の手すりの向こうに立つ二人を、サビトガは息を詰め、渾身の力を綱を握る手に込めて、地上に降ろし始めた。




