九十六話 『時代の飛沫 前編』
孤独な闇渡りは、鬼姫に浴びせられた酒の香りと、忍ぶ者の火薬壷の硝煙臭がすっかり風に散らされるまで続いた。
サビトガは最後の屋根瓦を踏むと、西の寝所の外壁をめぐるほんのわずかな足場を伝い始める。風に引き剥がされぬようぴったりと腹を壁につけ、ヤモリのように前へ進む。そうして露台の直下に行き着くと、手すりの根元をつかんで一気に体を引き上げた。
めきりと音を立てる手すりに冷や汗を流しながら、何とか露台の床に転がり込む。濡れた檜に顎骨をこすりつけ、視界に敵の影がないことを確認してから身を起こした。
西の寝所の露台は雨戸が開放されていて、暗い畳部屋に雨風が吹き込んでいる。足音を忍ばせて侵入すると、雨戸の裏側に金属の光があった。
数打ちの凡庸な刀が、抜き身で畳に突き刺さっていた。引き抜くと丁寧に油の塗られた刃先が、畳部屋の奥深くに灯っていた小さな水晶灯の光を反射する。
忍ぶ者が残してくれたのだろうか。サビトガは今夜初めて手にする真っ当な武器の感触に、頼もしさと、そしてどうしようもないやる瀬なさを感じた。
同じ祖国を抱く者同士が、悪人と凡愚の引き起こした政変のために敵味方に分かれ、このような形でしか手を取り合えないのがあまりに悲しかった。忍ぶ者や鬼姫だけの話ではない。サビトガと殺し合ったウダイや、サビトガの知らぬ所で殺された反ミテンの将兵や民草とて、本来ならば共に肩を並べ、時代の不正義に立ち向かうべき同胞だったはずだ。
誰もがただ、自分の人生を生きようとした。自分の大事なものを守り、自分らしく生きたかったのだ。
だがそれができなかった。ただそれだけのことが、ミテンという稀代の悪主、魔王のために叶わなかった。
たった一人の、邪悪な男のために。
サビトガは刀の黒い柄糸を握り締め、畳部屋の水晶の灯りへと歩んだ。
水晶の灯りはすぐそばで開けっ放しになっている板戸と、その奥の廊下の床をほのかに浮かび上がらせている。
サビトガの胸に、どす黒い殺意の炎が燃えていた。
目的を遂げた後、もし未だ命があったならば。
残る血肉の全てをかけて敵を斬り殺し、この国の中枢に向かい。
魔王ミテンの首を取ろう。
サビトガは無言のまま心に誓いを立て、魔性の形を、廊下の奥へと運んだ。




