九十五話 『清らかなもの』
サビトガは上半身をひねり、二本目の毒剣を身に突き立つ寸前でかわす。
敵の初手をしのいだが、反撃に出るつもりはなかった。あわてて前に出ればその瞬間に死ぬ。忍ぶ者はそういう敵だ。
彼らは本来戦闘員ではない。敵と技を競い争うことを任務としないのだ。
彼らの任務は即ち暗躍。人に知られることなく諜報や暗殺を行い、己の所業も含めた全ての事象を闇に葬ることにある。
忍ぶ者は争うのではない。一方的に奪い、殺すのだ。
それを承知しているサビトガの骨鋸からは、すでに受け止めたはずの一本目の毒剣が消えていた。
上体をそらし視点が動いた一瞬の隙に、忍ぶ者の一人が姿をくらましていた。視界に残ったもう一人はそれを気付かせまいとしてか、巧妙に急所をさらし、反撃を誘っている。
背後から風の音がする。サビトガは自然のそれと何一つ違わない響きを、見失った毒剣の風切り音と断じて骨鋸を振るった。
剣戟音。サビトガのうなじを狙って突き出されていた毒剣が、骨鋸の刃に再び埋まる。
体を返して鍔迫り合う間もなく、注意をそらした方の敵がすかさず風の音を立てる。骨鋸をひねりながらわきへ跳ぶと、毒剣が防具を失った胸を音を立ててかすめた。
立ち位置を整えねば。そう思った瞬間、サビトガの靴底がコケを踏んだ。ずるりと足がすべり、打ちつけた腰がそのまま瓦を下って行く。
思わず声を上げながら骨鋸を瓦に突き立て、何枚かを引き剥がして体を止める。鯨骨の刃が一本砕け、瓦と共に中庭に落ちていった。
息を吐き、顔を上げた。瞬間。
無音でそこにいた忍ぶ者が、サビトガの前髪をつかみ、毒剣を振り下ろした。
胸に、剣身が埋まる。肺がひしゃげ、口と鼻から空気が漏れ出る。
サビトガの視界が暗転した。忍ぶ者の渋柿色の貌が、屋根の上で燃え尽きる火炎壷の火花とともに、闇に沈む。
光が尽きる。
――――暗い視界に、やがて、星のようなきらめきが灯った。
サビトガはそれを、顔を横向かせたせいで目に入った後宮の一階の灯りだと認識すると、胸に埋まった毒剣の剣身を指で探る。
冷たい鉄の感触。だがそこに塗られているはずの毒のぬめりがなかった。
サビトガは剣身をつかみ、その刃がことごとく焼き潰されていたことを知り、再び視線を空に向ける。
サビトガの顔を覗き込む二人の忍ぶ者が、闇の中に亡霊の輪郭を浮かべながら、初めてしぃっ、と、息らしきものを吐き出した。
「新手が迫っている。下級妃達の騒乱は後宮の外の衛士達をも呼び寄せた」
「誰かに視られている可能性を考えれば、火薬壷の火が消えるまでは戦って見せるしかなかった。この一撃は必要な痛みと割り切ってもらおう」
サビトガの胸から、先端の丸められた、もはや剣とも呼べぬ鉄棒が引き剥がされる。
問いの言葉を放とうとするサビトガの耳に、風雨の音を縫って後宮の門をぶち破る音が届いた。クイナの遺体のある部屋に、誰かが踏み込んだのだ。
忍ぶ者が、亡霊の貌を寄せてサビトガに言葉を降ろす。
「これより我ら二人、剣戟の音をもって追っ手を北の寝所へと誘う。君はその隙に目的を遂げよ」
「長くはもたん。西の寝所内にも敵は居る。迅速に侵入し、殺すのだ」
「……なぜ助けてくれる?」
身を起こすと、忍ぶ者は野猿のような動きで瓦の上を退いた。
闇に輪郭を散らしながら、寒風に似た響きが交互に応える。
「諜報に暗殺、かどわかし、時には放火や毒による無差別の殺戮。卑劣な汚れ仕事を担う者ほど、しかしそれを命じる国家には正しく高潔なものを持っていて欲しいと願っている。我らが泥をかぶり、汚れたぶん、国は清らかでいられるのだと信じたかった」
「正義だ。処刑人。卑劣な我らは正義を欲した」
風雨の音に、無数の怒声が混じる。忍ぶ者はサビトガを見つめ、屋根の上にまっすぐに立ち上がった。
「総勢十八名の忍ぶ者も、ミテンへの恭順を拒みそのほとんどが処分された。仲間達の晒し首を前に、それでも我ら二人だけがミテンに下り生き残ったのは、この地獄のような国に正義の息吹を探すため」
「暴君の時代に正義を為す者を待つため。我らの信じた清らかなものを持つ人間が、未だ生き残っていることを識って逝くため」
「我らは君を待っていた。君のような男を待っていたのだ」
忍ぶ者の輪郭が、風雨の中に消え去った。漆黒の闇から刃の潰れた毒剣をかち合わせる高らかな音と共に、最後の声が流れてくる。
「さらばだ。同胞よ。本懐を遂げよ」
「闇が君を導かんことを」
サビトガから離れた場所の瓦がはじけ、中庭に落下してゆく。剣戟の音と光が梅の林に舞い、やがて火薬壷の火花が遠くで炸裂する。
サビトガの幻影と戦う忍ぶ者を、多くの気配が追うのが分かった。後宮の扉を破った怒声の群が、北の寝所へと離れて行く。
サビトガは、いつの間にか手元から消えていた骨鋸を探すこともせず、慎重に瓦を登って屋根上へと復帰した。
西の寝所への道は、忍ぶ者達がまとっていた泥濘のような闇に沈んでいる。
剣戟音と怒声に耳を震わせながら、サビトガは奥歯を噛みしめ、闇を渡り始めた。




