九十三話 『鬼姫様 後編』
「――私は今夜、その在野の田舎娘の産んだ子のために馳せ参じております」
「シブキか。聡明な可愛い子じゃ。だからこそ余計に憎らしい」
あれの母親も、よぅいびっては泣かせたものよ。
楽しげに言う鬼姫に、サビトガは畳の上から立ち上がろうとした。即座に鬼姫の指が伸び、サビトガの手の甲に爪を食い込ませる。
「無礼者。未だ私が喋っておる」
「聞くに堪えませぬ」
「女にはたやすく抗えるのだな。男の王には全てを差し出し媚びへつらうくせに」
きりきりと鬼姫の目が吊り上がる。サビトガはつかまれた手を流れる血潮を見つめながら、ゆっくりと息を吐いた。
「……後宮に監禁され続けるあなた様は御存知ないでしょうが……私は、少なくとも今回の件に関しては、誰にも屈してはおりません」
「何?」
「ミテン王子を奉じておりません。彼の臣下となることを拒み幽閉されました。そして勇気ある人の助けを得て、この場に至ったのです」
「シブキの元に参じるのは先王の御遺言のためであろう」
「いいえ」
鬼姫がサビトガを恐ろしい目で睨む。一切の虚偽も欺瞞も許さぬ眼光に、サビトガはここだけのことと、本心をさらけ出した。
「シブキ王子に仕えたかった。聡明で、正義を理解し、人情に篤く、それゆえに玉座に着けなかったあの方にこそ俺は仕えたかった。王位簒奪者としての勝ち目は最も薄く、しかし支配者としての器は誰よりも大きいあの方に。
……シブキ王子が、愚か極まりない先王や、邪悪なミテン王子のために果てるなど……天地が許しても、人の道が許しません」
「人の道だ? 処刑人ごときが……」
「俺にあなた様や、他の妃方をもお助けする力がないのが、残念です」
鬼姫が、はっとした表情でサビトガから爪を離した。サビトガは彼女を見つめながら、ゆっくりと立ち上がる。
しばし雨音を部屋に満たしてから、鬼姫が唇を噛んで「僭越」と、うめくように言った。
「貴様、人を殺すのが役目であろうが。皮を剥ぎ、肉を削ぎ、骨を取り出し晒しものにする男が、何を今更、勇士や、騎士じみたことを……」
「人は戦わねばならぬ、運命に抗わねばならぬと、先ほど仰いました」
「遅い! あまりにも遅すぎる! その本心をもっと早う明かしておれば、私と貴様でどのような謀も巡らせられたではないか! 私は後宮を、貴様は俗世を恐怖で震わせる鬼畜の権化ぞ! むざむざミテンに後の世をくれてやることもなかったかも知れぬ!!」
「……申し訳ございません。ですが、謀反を起こしたいかどうかとは、また別の話なのです」
頭を下げるサビトガに、鬼姫は首を振りながら酒器をつかみ上げ、そのまま直接きつい酒を煽った。
喉を焼きつかせながら目じりに涙を浮かべ、酒器を放り出すと、彼女は発酵した桃の臭いのする息を吐く。
思えば当年三十をとうに過ぎているはずの鬼姫が、肩で息をしながら「下らぬ時代に生まれたな」と、染み入るような声で言った。
「私は皇后に、貴様は将軍かそれ以上の地位に臨める人間じゃ。真っ当な時代であれば、我らはきっと誇りと幸福に満たされて死ねたろうに」
「……」
「シブキは西の寝所に居る。貴様が入って来たのと逆側の露台に出れば、屋根伝いに行けるはずじゃ」
サビトガは目を見開き、示唆された方角に顔を向ける。本来寵妃達が住む三階建ての寝所は北に在った。二階建ての上級妃の寝所にシブキが監禁されていたことは、予想外だった。
鬼姫が、乱れかけた着物を正しながら、再び畳の上にまっすぐに座した。目をつむりながら「失せろ」と、冷たい声を放つ。
「これ以上後宮の女の心をかき乱すな。男を求め狂う下級妃も、なけなしの高潔を保ち座す上級妃も、ともに死を間近に感じ己の人生の意味に惑っておるのだ。
貴様の存在は、それ自体が目の毒だ。さっさとシブキと母堂をさらって消え失せろ」
「…………御意」
「予期せぬ会話は楽しかった。それにだけは、礼を言っておく」
サビトガは、氷のような鬼姫の顔を見つめ、深く丁寧に一礼した。それから骨鋸を拾い上げ、部屋を後にする。
雨戸が開き、閉じられると、吹き込む風が蝋燭の火を踊らせた。
鬼姫、明星妃は、そんな炎のゆらめきにそっと唇を歪ませる。
誰にも聞こえぬよう、炎にささやくように「良い男よなぁ」とつぶやいた。
桃と血の臭いが、薄暗い部屋の中を漂っていた。




