九十二話 『鬼姫様 中編』
痛みに震える指で、酒器を取る。
妃に酌をするなど初めてのことだった。鬼姫にしても処刑人の酌など経験がないだろう。
まるで武将のような堂々とした手つきで差し出される盃に、ゆっくりと酒を注ぎ入れる。
鬼姫がサビトガを見ている。陶器の顎骨の奥を見透かすように、針のような視線が突き刺さる。
盃が満たされると、サビトガはすぐに酒器を引いた。そこで鬼姫が「失格」と、裁判官のごとく厳格に声を吐く。
「重ねた唇を離す時のように、名残惜しげにゆっくりと、艶をまとわせて引くのが酌の作法じゃ。私が王で、貴様が妃なら、確実にお手つきの機会を逃しておる」
「無作法は御容赦を」
「ならぬ。後宮での無作法はけっして許されぬ。……本来ならば、な」
鬼姫が盃を返し、酒を畳に吸わせた。
無言で酒器を置くサビトガを見つめ、鬼姫はふ、と息をつく。
その吐息の響きが、初めて彼女から感じられた甘さだった。
「たかが一度の酌の作法。たかが一度の舞の出来。そんなものに己が命運をかけ、そして断じられる妃の人生……。貴様ら男などには、想像もできまい」
「……」
「我らをふしだらと思うか?」
否定の言葉を吐く前に、鬼姫が高らかに笑った。敵意を感じさせるような鋭い笑い方だった。彼女の目が剃刀の形で、処刑人の首元を見る。
「国の最高権力者に好かれるため、美を磨き芸事を習い、房中術をはじめとする淫らな性技を身につける。そんな妃を高級売女だのと誹謗する下衆者は多い。しょせん一人の男の子種を取り合い争う、雌犬に過ぎぬとな」
「言葉に責任を負わぬ者の誹謗を受けるのは、処刑人も変わりませぬ」
「貴様と一緒にするな。貴様は誹謗されてもただ黙って耐えていただけではないか。それとも今夜に至り、ようやく尊厳のために戦う気になったか?」
思わず強く視線を返したサビトガに、鬼姫が盃をほうり捨てながら目を細める。「人は戦わねばならんのだ」と、赤い唇が歯を覗かせた。
「踏まれても蹴られてもただ耐え続けることを良しとする者は、道ばたの石ころ同然の人生を歩む。忍耐など、美徳ではない。牙を返さぬ者は死ぬまで虐げられる。
私はな、錆咎。天下の夢を見て後宮に入ったのだ」
「……天下」
「そうよ。名門の家に生まれ、父と母には家のために国王の妃となれと言われた。国王に好かれ、可愛がられ、抱かれ、王子を産んで皇后となり、家を栄えさせよとな。上級妃は皆同じであろう。後宮に入りたくて入った女などおるまい。
我らはどうあがいても妃になるしかなかった。それ以外の生き方は許されなかったのだ。だが私は、それを抗えぬ運命とは思いたくなかった。だから天下の夢を見たのだ。
自分は国王の心を攻め落とし、骨抜きにして国母の座を勝ち取り、国を裏から操る稀代の悪妃になるための戦に出るのだと考えた。
これは私自身のための戦いなのだ、とな」
鬼姫がサビトガの顔を覗き込む。鬼が怪鳥を、敵意に満ちた声であざ笑った。
「国ぐるみの不当な扱いを受けながら、ただ石のように黙って耐え忍ぶ道を選んだ貴様が、私に同情めいた言葉を吐くな。この鬼姫は売女と言われようが雌犬と言われようが、そんなことは一向に構わんのだ。
美を売り物にする? 父がそう仕向けた。
性を道具にする? 母がそう仕込んだのだ。
人は天から与えられた物で勝負するしかない。なればこそ私は私の全てを武器にする。下衆どものさえずりなど蹴散らして、美と性で国王を落とす。国を我が物に。それが女の戦いというものだ」
声をはずませて言い切った鬼姫は、しかしすぐに顔から笑みを消し、再び背筋を張って目を閉じた。
黙っているサビトガに、鬼姫が時間をかけて「夢の跡か」と、つぶやくように言う。
「色の遺伝の話が出るまでは、私は完璧だった。何もかもを完璧にこなして、後宮一の妃の名声をほしいままにした。生まれつきの体の異常……天から与えられた物が最後に私を敗者にしたのかと思うと、悔しくて仕方がなかった」
「恐れながら、あなた様が寵妃になれなかったのは、あなた様のせいではございません」
「まあな。陛下は初めから後宮内の女には興味がなかった。それがまた悔しいのだ。私の渾身の酌や舞が、まるで空気を吸うかのように消費されていたのかと思うと、悔しくてたまらぬ」
鬼姫が目を開ける。刃のようなとげとげしさが、嘘のように消えていた。
だが彼女の唇が、次の瞬間嘲笑とともに、サビトガの毛筋を逆立てるような悪辣な台詞を放つ。
「在野から寵妃の座をかすめ取った、下級上級の位すら持たぬ田舎娘ども。やつらの粗雑な作法を嗤い、指導と称していじめ抜くのは心底楽しかったがな。
どうせ国が滅びるなら、誤った作法を教え込み陛下に毒でも盛らせれば良かった。そうすればミテンも他の王子も、産まれはせなんだものを」




