九十話 『無様の空』
「――放せッ!!」
妃達のあまりの狂乱ぶりに、サビトガは敬語を捨てて自分を引きずる腕を剥がそうとする。
脅しに骨鋸を白い肌に当てるが、即座に嘲笑を浴びせられた。「引けるものか」と、サビトガの靴をうれしげに舐める女が嗤う。
「意気地なし! 優男! お前は絶対に我々を傷つけない! 傷つけられるものか! 後宮の不義を見逃し続けたお前の性根は、ここにいる皆が知っておるぞ!」
「嫌がるな、逃げるな、愛い奴め。可愛がってあげるから大人しくおし」
「ああ、堪らない。男の臭いよ。戦う男の、血と汗の臭い……!」
「早く引きずり込んで! 他の部屋のやつらに盗られちゃう!」
もはや回廊は大混乱に陥っていた。コウモリの鳴き声にも似た女の叫びが雨音を掻き消し、檜の床が割れんばかりの足音を地鳴りのように伝えてくる。
このままでは八つ裂きにされる。腰まで部屋に引きずり込まれていたサビトガは、意を決して女達の腕ではなく、自分の胸当てや腕当ての留め紐を引き裂いた。
女達の何人かが外れた防具とともに闇の中に吹っ飛び、尻餅をつく。サビトガはさらにマントの羽毛や髪の先を切り捨て、白い腕の拘束を解く。
最後に靴を舐める女を押しのけると、震撼する廊下にほうほうのていで脱出した。
息を乱すサビトガの左右から、殺気にも似た気配が迫って来る。白い指に再び囚われる前に、サビトガは回廊の手すりを越えて中庭へと降り立った。
暴徒同然の女達に追われながら、梅林を駆ける。おびただしい人影が雨の中庭になだれ込み、すぐに泥の上を埋め始めた。
回廊を押さえられた以上、地べたを逃げ回っていても袋のネズミだった。活路があるとすれば、上だ。闇と雨雲のこもる空へ向かうしかなかった。
目の前の木陰から、雨に髪を濡らした下級妃がまるでかくれんぼをしていたかのように笑顔を覗かせた。可愛げな童顔に、血走った執念の眼光が灯っている。
両腕を伸ばし、唇の動きだけで愛をせがむ彼女を、サビトガは努めて厳しい目で見ないようにした。まぶたを震わせながら、気合と共に地面と、樹肌を蹴る。
抱擁を待つ下級妃の頭上、歪に広がる梅の枝をつかみ、体を一気に押し上げた。
足下から下級妃がすさまじい目を向けてくる。つくろっていた可愛さをかなぐり捨て、歯と目を剥いて悪態をつく彼女を、サビトガはさらに枝を飛び移り、置き去りにする。
細い梅の枝がぎしぎしと揺れ、靴の下でばきばきと樹皮を砕けさせる。中庭と回廊にひしめく女達が悲鳴を上げた。慣れない手で必死に梅の木にしがみつき、登り損ねながら、サビトガの行方を何百もの目で追う。
サビトガは梅の枝が導くまま、後宮の東側、二階建ての上級妃の寝所へと向かう。枝の先から屋根へと移る瞬間、下級妃達の中から、行かないで、と涙声が上がった。
何も返さないことが、最も彼女らを傷つけないと思った。
屋根を伝い、回廊から死角となる暗闇へと入り込む。
意気地なし。
妃の一人に言われた言葉が、脳裏に一度だけ甦った。




