八十三話 『士道 中編』
サビトガは女官を林のさらに暗がりへと導いてから、地面に腰を下ろし、痛む足の筋を伸ばしにかかった。
頭上には遅咲きの木蓮の花が、まるで雨水をすすり飲む唇のように群成し広がっている。世界がぬかるみと化す長雨の中、林の地面だけはさらりと乾いていた。
女官がサビトガのいでたちを眺め、きゅっと目をとがらせた。「本当に王子を助け出すつもりなのね」と小声を吐く彼女が、胸当てに差し込まれた骨鋸の柄を指す。
「でも、そんなものでミテンの衛士と戦うのは無謀だわ。拷問具は武器じゃない。抵抗する敵を殺すのには不向きよ」
「武器や拷問具に明るい女官がいるとはな」
「女だからって見くびらないで。『官』の名を受ける者に無知であることなど許されない」
「中々の女傑ぶりだ。だがあんたは俺の戦い方を知らん」
「処刑人の戦い方?」
「雑兵の戦い方だ」
めり、と足の筋を鳴らすサビトガに、女官は眉間にしわを刻む。細い指が懐をあさるや、どす黒い小袋を取り出し、差し出してきた。
受け取ると指先にじんわりと熱が伝わる。「痛めた場所に当てて」と、女官の唇がほんの少し柔らかい口調で言った。
「鹿皮の温水袋。中のお湯はだいぶ冷めちゃったけれど、夜気にさらしておくよりかは具合がよくなるでしょ」
「ありがたい。使わせてもらう」
「ねえ、本当の本当に、シブキ王子様を助けられると思う?」
温水袋を服の下に仕込むサビトガが、「無論だ」と後宮の橋を睨みながら言った。
「戦場往来八年。雑兵時代に課せられた死戦を思えば、この戦いはまだマシな方だよ」
「お願いだから強がらないで。雑兵は駒よ。自分で立てた作戦で戦ったことなんか一度もないはずだわ」
「作戦など糞だ。いつも大局しか考慮されていなかった。雑兵はおおざっぱな命令で突撃させられ、はるか後方に指揮官を残して戦場に放り込まれるんだ。だから自分達の命は自分達で守るしかなかった。
頭を使わない雑兵は真っ先に死ぬ。俺達はいつも自分の判断で戦っていた」
「……」
「軍師の戦いが大局のものであるならば、雑兵の戦いは局地のものだ。大きな戦いの流れを操る軍師の下で、個人レベルの殺し合いを雑兵が仕切っている。
今回、大局の戦いはミテンの完全勝利だ。もはやヤツの即位を阻める軍師は残っていまい。ならば後は雑兵がいかに局地で抗うか。それだけだ」
女官が、頭巾の留め紐をしきりにいじりながら目を落とした。「雑兵の抵抗」とつぶやくように言うと、彼女の肩が一度、大きく震える。
「あなたが敵軍の将を討ち取ったのは、軍師の誰もが意図していなかった『事故』のようなものだったと。そう、先王の武将達が言っていたのを聞いたことがあるわ」
「実際その通りだった。誹謗される筋合いはないがな」
「軍師にできないことが雑兵にできると言うの? 国家の重臣達が死にゆく中、処刑人が王子を救えると言うの? そう本気で信じているの?」
いつしかすがるような目で声も抑えずに問うてきた女官の唇を、サビトガはそっと指の背で押した。
「さもなくば俺はあんたに殺されるんだろう?」と返すと、女官が唐突に頬を赤くしてうつむく。なぜか恥じ入るような口調で「あれはちょっと言い過ぎた」と、頭巾の紐をくちゃくちゃにする。
「言い訳するわけじゃないけど、王子の言伝を預かって一人後宮を抜け出して、やっと会えたあなたが突拍子もないことを言うから、つい頭に血がのぼって……」
「ああ、それは俺も悪かった。あんたも命がけで動いてるんだろうにな。怒って当然だ」
「あたし、クイナ」
サビトガは女官の言葉を、一瞬の間の後に改めての名乗りと理解し、「サビトガだ」と右手を差し出した。
クイナは手を握りながら、出会って初めての笑顔を見せる。笑うと八重歯がこぼれ、きつい雰囲気が少しばかり和らいだ。
「本当はね、あなたとはこれまでにも何度か顔を合わせてるの。シブキ王子のお供の列の中からだけど」
「すまない。覚えがあるような気はしていたんだが……」
「あなたがシブキ王子にどんな接し方をしてきたのか、よく知ってる。それを王子がどんなふうに受け取ってきたのかも」
クイナはサビトガの目を見つめ、笑みを消した。木蓮の花を伝う雨の音が、頭上から滴ってくる。
「王子が何を望んでいるか……何を思っておられるか……。それはきっと、あたしよりあなたの方が、ずっとよく理解しているはずね」
「……」
「どうか、よろしくお願いします」
これから起こる、すべてのことを。
サビトガはクイナに、昨日檻の中からしたように。最大限の慎重さをもって。
ゆっくりと、うなずきを返した。




