八十二話 『士道 前編』
刑場の門をくぐると、サビトガは雨の中に浮かぶ後宮の赤い屋根へと視線を向けた。
パージ・グナでは刑場も後宮も共に王の権威を象徴する重要な施設として、広大な王宮の敷地内に設けられている。
処刑したばかりの大物犯罪者の首を最低限の首化粧だけ施し、後宮の怖いもの好きの妃に届けることもあった。
王の寵妃達とその候補達、絶世の美女とそれに準ずる者ばかりが押し込められた花園に出入りできるのは、男子ならば王と王子、男根を切り落とした宦官達。例外的に寵妃か王族のじきじきの召喚を受けた処刑人もこれに加わる。
後宮の女はすべて王の『お手つき』を待つ身分であり、俗世の男どもから遠ざけるべきであるが、女を抱けぬ宦官や、厳格な法の手先である処刑人に限れば後宮に入れても問題は起こるまい。それがこの国の王室の考えだった。
だがサビトガは、五百人を超える後宮の女達の実に半数以上が宦官と恋仲にあり、すでに不浄な関係を遂げていることを知っていた。
男としての人生を捨てた宦官が、それでも主君の所有する女達に手を出し、恐れ多い大罪を犯すに至ったのは、彼らを求める女達の情愛があまりに熱烈だったからだ。
そしてそうなった責任は他でもない後宮の主、国王自身にあった。
すでにこの世を去った先王は、元々後宮の囲いの中にいる女よりも、未だ在野の美女を自分自身で見つけ出すことに快を感じる人で、身分を隠した献身的な恋の果てに妃を迎える行為をこよなく愛していた。
そうして寵愛を受けるに至った王妃は例外なく幸せの絶頂に達し、後宮で最も恵まれた椅子に座り、王子を産む。
民間の女達にも大いに夢想と憧れを抱かせた甘美な王の嗜好は、しかし恋なくして後宮に入れられた女達に致命的な絶望を与えた。
後宮内でのお手つきに一切興味を示さぬ王は、寵妃となるために必死に美を磨き、知にも技巧にも励み続ける女達の努力を踏みにじっていたのだ。
国の権威に若い身を囲い込まれたあげく、王には見向きもされず、どこの馬の骨とも知れぬ『外』の女に寵妃の座を奪われる。
五百人の怨嗟は後宮に満ちあふれ、愛情に対する飢えが情欲となって王以外の男に向けられた。それが女達と宦官の不義の理由だった。
王は事態をうすうす察知しながらも、後ろめたさからか一切の解決を試みなかった。後宮は生臭い感情と欲望の掃き溜めと化し、本来の聖域性を失った。
サビトガは寵妃達やシブキ王子に喚ばれて後宮に赴くたび、下級妃達に何度も呼び止められ、驚くほど率直な言葉で不義に誘われた。
処刑人を部屋に誘い込むことは、宦官を引き入れることとは意味も重大性も違う。殺人を許された法の手先に不義を持ちかけようものなら、たとえ後宮の女でも処刑台に立たされ得る。
だが下級妃達は、口を揃えてそれでも構わないと言った。宦官ではなく本物の男に触れるのなら死んでもいいと、そう、ぞっとするほど裏のない笑顔でのたまうのだ。
サビトガはそんな女達を袖にし続け、見逃し続けた。どんなに見目麗しく可愛げに誘われても、彼女らには哀れしか感じなかった。
彼女らに非道を働いたぼんくらにわざわざ密告して、処刑命令を催促することもない。責めを負うべき者がいるとしたら、それはやつ自身だ。
下級妃達とサビトガは、まるで同じだった。同じ愚王の被害者だった。
サビトガは雨の中を後宮へと向かいながら、暗い視界に敵の影を探す。王宮には夜間照明を携える衛兵の他に、無灯火で敷地に潜む伏兵がいる。
少数精鋭の、いわば『忍ぶ者』だが、ミテンの支配をはねのけていなければ彼らもサビトガの敵に回る可能性があった。
現れ得る全ての脅威を警戒しながら、サビトガは雨と影の間を走る。明かりの類には近づかず、多少回り道をしても安全な道を選んだ。
冷たい雨に一度こむら返りを起こした足が再び震え始める。慎重に筋を伸ばし、休みを取りながら、やがて赤い屋根のそばに到達した。
後宮の周りには堀が走っていて、架け橋が三つかかっている。西側の、王宮から最も見えにくい橋を選んで近づくと、橋の手前の木蓮の林に人影が見えた。
サビトガは目を細め、足音を殺して接近する。木陰で身をかがめていた相手の口と腰を、背後からふさぎ、捕まえた。
びくりと震える相手の頭巾に、声を注ぎ込む。
「俺だ。一日待たせたが、招きに応じたぞ」
女官が、猫のように丸い目を返してきた。すぐに解放すると、サビトガは彼女の隣にかがみ込み、橋を見つめたまま声を続ける。
「何を待っている?」
「……後宮にいるミテンの衛士を買収したの。橋の向こうの大扉が、日が代わる瞬間から百を数える間だけ開くわ」
「つまり帰りは閉じているということか」
「帰りは必要ない予定だったもの」
「日が代わるまで、あと数時間。体と心の準備をするには十分な猶予だな」




