八十一話 『四角い業火』
合鍵は翌日まで使わなかった。
本来なら一刻も早くシブキ王子の元に駆けつけるべきだったが、まずは一ヶ月の収監生活で萎えた体の調子を戻さぬことには身動きが取れなかった。
まして王子を救出するのなら、王宮の衛士達との戦闘は避けられない。
殺人に必要な最低限の体力を取り戻す必要があった。
サビトガは残飯に水をかけた食餌をいつも以上に執拗にむさぼり、格子を伝う雨水をすすり飲み、顔の近くに寄って来る蝿や蚊すら捕食し血肉に変えた。さらに一日かけて狭い檻の中で体を動かし、停滞していた血流をめぐらせる。
肉体が戦いを予感して熱を発し、同時に忘れていた痛みが全身を駆けめぐった。
心臓が鼓動し、神経が電流のような息吹とともに甦る。それはゆるやかな死に身をひたしていた人間が、再び生き戦う意志を固めた反動だ。
闘争に向かう肉体は痛みを感じる。痛みこそが生の証明だった。
サビトガはやがて太陽が刑場の壁の向こうに没すると、檻の中から腕を伸ばし、牢番の首を絞め上げた。
鉄の格子ごと抱いた首骨が嫌な音を立てて砕け、牢番の手足がだらりと伸びる。
サビトガは牢番の頭が真後ろを向くことを確かめてから、彼を解放し、合鍵を使った。
樹脂と紙でできた合鍵は、一度使うと鍵穴の中でへし折れた。檻の外に出ると一ヶ月ぶりに伸ばされた足が悲鳴を上げ、ひざから崩れ落ちる。
サビトガは数分を裏返った足の筋肉の治癒に当て、それから死んだ牢番の持ち物をあさった。
武器や食料の類は持っていなかった。だが懐に、かつてサビトガが管理していた拷問室の鍵束があった。
サビトガは鍵束を取り上げ、地の上に立つ。
天からの雫が衣にこびりついた血と垢を洗い流してゆく。
サビトガは牢番の死体をまたぎ、刑場に隣接する拷問室へと向かった。
人気のない刑場に、サビトガの湿った靴音が響く。
ミテンの親衛隊はその処刑の手腕と同様に、刑場それ自体の使い方も大いに雑だった。
廊下の壁には暴行された罪人達の頭皮や肉片が飛び散っていて、床には死体を引きずった跡が赤々と残っている。
使い潰した処刑刀剣が乱雑に放置され、刃に付着した耳や鼻を蛆がむさぼっていた。
やがてたどり着いた拷問室の前にも老婆の死体があり、連行に抗い舌を噛み切った姿勢で固まっている。
サビトガは老婆のわきを無言で通り過ぎ、拷問室の扉に鍵束を近づけた。
最も大きな鍵を鍵穴に差し込むと、力を込めて右に回す。がこんと音がして、鉄製の扉が開いた。
むせ返るような腐臭が外界に噴き出す。サビトガは思わず口元を手で覆いながら、部屋の中に足を踏み入れた。
腐った空気をかき分けると、すぐに炎の光が見えた。
焼きごての差し入れられた巨大な炉が、丸太のような薪を咥え、ぢりぢりと音を立てて燃えている。
その周囲に。部屋中に。
おびただしい数の王国臣民の死体が積み重なっていた。
サビトガは口から手を離し、地獄の臭気を、あえて胸いっぱいに吸い込んだ。全身の皮膚を剥がれた小さな遺体が、床からサビトガの靴に指を伸ばしていた。その乾ききった肉の繊維を、サビトガは鬼の目で見下ろす。
部屋中の死体が煌々と燃える炉の火にあぶられ、燻製化していた。悪魔の食餌のようなそれに、サビトガの胃がねじれ、奇妙な音を立てる。
サビトガは、死体の海をまたぎ、拷問室の奥へと進む。
炉の明かりがギリギリ届かぬ暗がりに、サビトガの拷問具と予備の衣装がかかっていた。死体に見つめられながら汚れた服と靴を脱ぎ捨て、着替える。
乾いた羽毛のマントが床に伸び、陶器の顎骨が口元を覆った。
武器たる処刑槍とシドウの剣は見当たらなかったので、拷問具から使えそうな物を見繕う。
股裂き用の鯨の背骨でできた『骨鋸』と、特製の大針『峨嵋刺』、カラスの嘴のような形をした鉄の拡張具『耳裂き』。
全てをマントの内側、ベルトや胸当ての隙間に差し込んで装着し、さらに罪人のしゃれこうべを作るために使う強酸の入った薬瓶を隠し持つ。
戦いの準備が済むと、サビトガは最後に火葬用の油壷を取り上げ、中身を部屋中に撒いた。乾いた死体が油を吸収し、筋肉が音を立ててゆるむ。
サビトガは死者の何人かが笑みを向けてくるのを感じながら、真っ赤に焼けた焼きごてを一つ抜き取る。
部屋の出口に歩み、扉をくぐりざま、背後に視線もくれずに放り投げた。焼きごてと接触した油が音を立てて燃え上がり、拷問室に炎が満ちる。
四角く、扉の形に切り取られた炎を背負いながら、サビトガは病苦に蝕まれる赤子のようにうめいた。怨嗟と、苦痛のままに、誰にともなく「すまない」と声を落とす。
それっきり、サビトガの人間としての面影は、黒髪と黒い羽毛と、陶器の顎骨と、そして人を焼く火の粉の中に、消え失せた。




