八十話 『意志の鳥獣』
全てを傍観するままに、さらに十日が過ぎる。
サビトガは依然檻の中に居り、暗黒の時代に動きはない。
肉体が限界に近づいていた。骨はきしみ、肉は皮膚を破らんばかりに腫れ上がっている。血液は体の末端にばかり溜まり、どろどろと不快な渦を巻いていた。
臓腑が死を予感して縮み上がり、神経はもはや苦痛すらも伝えぬほどに磨耗している。
このまま一矢も報いることなく、朽ちるのか。
己の命運を静かに受け入れかけたサビトガを、しかし不意に新たな客人が見舞った。
夕暮れ時、帰宅した牢番と入れ違いに刑場に現れたその客人は、深い緑色の頭巾をかぶった婦人だった。
見覚えがあるような、ないような顔立ち。誰何の声を向けると、婦人はやはり覚えのあいまいな名を名乗る。
何者であったか。眉根を寄せるサビトガに相手は鈴の鳴るような声で身分を明かした。「シブキ王子の使いです」と。
サビトガは思わず檻の中で身じろぎし、寄って来る女に厳しい口調で言った。
「囚われの貴人の女官が、俺などに何の用だ。ミテンに見咎められるぞ」
「シブキ王子の処刑が決まりました。三日後の日没に、首を落とされます」
目を剥くサビトガに、女官はさらに続ける。
「存命であらせられたもうお一人の王子、リンメイ王子は、さきほど処刑されました。絶命まで二十回以上、刃を振るわれたそうです」
「……」
「ミテンはあなたを使うことを諦めたようです。シブキ王子は『約束を果たしてほしい』と仰せです」
目を伏せるサビトガに、女官はりんと通る声を畳み掛けるように飛ばしてくる。
「あなたの立場は理解しております。あなたは先王の命の下、旧時代の法と正義に従い罪人を殺し続けた処刑人。なればこそ王座を簒奪したミテンのための処刑は行えない。自分が身を捧げた権威以外のものに刃を委ねるならば、それはあなたのこれまでの処刑行為の正当性が失われるということ。
あなたはおびただしい数の殺人の『咎』を、一身に負わねばならなくなる」
「……シブキ王子もそれをご承知なのか」
「はい。ですからシブキ王子は、ミテンの指定した処刑期日より前に来てくれないかと仰せです」
サビトガは顔を上げ、女官に視線を送る。
王家の女官は皆そうだが、深緑の頭巾に縁取られた目鼻立ちは異様なほどに美しく、作り物のように整っている。
その美貌の目元に、うっすらと涙の跡が這っていた。
「あなた自身の意志で……いかなる権威にも屈さぬ形で、シブキ王子の御首を落として頂きたい。シブキ王子はあなたに全身全霊の感謝のみを抱き、昇天されます」
「……」
「お分かりになりませんか。ミテンの手の者より先にシブキ王子のお命を頂戴するということは、すなわちミテンの計画した公開処刑を阻止することになるのです。それはミテンの権威に、その下に行われる処刑行為の正当性に否を突きつけることでしょう。旧時代の処刑人としては、これ以上格好のつく散り様もないのでは?」
「俺は『約束』はしていない」
サビトガは女官の顔を見つめながら、ゆっくりと、言葉を吐いた。
「シブキ王子は、確かに俺に御自身の斬首を依頼された。だが俺はそれに返事をしていない。承りましたと、言っていない」
「……」
「他に道はないのか」
「ふざけないで」
女官の口調が変わった。サビトガは目を細めながら、しかし一切口調をゆるめずに返す。
「俺に、あの聡明な王子の首を落とせと言うのか。法や正義の後ろ盾もなく、俺自身の意志と責任で何の罪もない少年を……時代が違えば王になったかも知れぬお人を斬り殺せと……。そんなことを、俺に頼むのか」
「いい加減にして! あの方が、シブキ王子様がどんなお気持ちであなたを喚んでおられると……!」
「俺は、嫌だ」
サビトガの目元に、亀裂のような皺が寄った。
「シブキ王子は、俺が大嫌いな王族連中の中でたった一人……たった一人『好意』に値する人物だ。あの方だけが俺を、ただの一度も『背中刺し』とは呼ばなかった。
そんな人を、なぜ俺が望んだかのような形で殺さねばならぬのだ。俺の『意志』と言うのなら……そんなことは、毛頭望んではいない」
「……!」
「言え。俺がシブキ王子の元に駆けつけるための手段を用意してきたのだろう。ミテンの手に落ちた都の内、そんな『手』が残っているとは到底思えんが……しかしあると言うのならば、使ってやる」
ただし俺は、王子を殺すことよりも、生かすことを選ぶ。
女官はそう豪語するサビトガを、しばらく鋭い目で睨み続けたかと思うと……おもむろに懐から真っ白な鍵を取り出して、格子の内に投げ込んだ。
檻の鍵か。おそらくは牢番が持つ本物の鍵に粘土か餅を押し付けて型を取り、樹脂や紙片を重ねて作った即席の合鍵だ。
これを用意するためにどんな危険を冒したのだと訊く前に、女官は細い背を返し、わずかに怒りを感じさせる足取りで刑場を去り始める。
彼女は最後に、うなるように言い捨てて行った。
「王子はすでにお覚悟を決めておられるわ。あの高潔なお方にいったいどんな言葉をかけるつもりか知らないけれど……もしも、もしもほんの少しでもシブキ王子の尊厳が汚されるような結果になったなら……。
その時は、私が地の果てまで追い詰めてでも、あなたを殺すわよ」
サビトガは、そんな彼女の言葉に何を言い返すこともなく。
ただ足元の合鍵を苦労して拾い上げながら、小さく、うなずいた。




