七十七話 『眼底の虚無』
当直場には、シュトロとレッジが眠っている。見張り番の少女は階下を見回っているようだった。
彼女が場を離れる一瞬の隙に接近してきたハングリンの額に、固めた拳をゆっくりと押し当てる。
笑顔を崩さないハングリンに、サビトガは小さく歯を鳴らした。
「俺を寛大な男だと思ったら大間違いだ」
「思ってない。君は理知的だが、とても厳格な人間だ。自分の信念やルールを侵す者は容赦なく叩き潰す。それがたとえ女子供であろうともね」
「人の言動や物腰からその内面を推し量る。あんたはそれを優れた探検家だけの能力のように思っているらしいが、それも間違いだ」
「ほう。他にできる者がいるかね。心理を探求する学者とか?」
「詐欺師だよ。物事の一面だけを切り取って、全てを見抜いたかのように振る舞う。本当は何も知らないくせにな」
ハングリンは笑みを深め、それから己の首を息がつまらぬ程度につかんでいるサビトガの指をほどきにかかる。
赤い光はハングリンの顔を、血塗れのように染めている。その唇がゆっくりと動き、粘着質な音を立てた。
「例の話だがね」
「『新しい靴』のことか?」
「うん。魔の者と戦う術を持たぬ私が、魔の者に挑む君らにひっついて行って、知り得ぬことを知るというのは確かに楽しそうだ。私の『探検』とは死地に踏み込みながら、死を避け続けることで成功を収める、いわば回避の極意だ。その極意をこのさい捨ててしまうというのも、面白いかもしれない」
「仲間として同行したいと?」
「それはどうだろう。仲間だと宣言してしまうと、君らの窮地には命を賭して戦わねばならなくなる。それはごめんだ。私はあくまで『観測者』でいたい」
「ならば二度とこんなまねをするな。他の者にもだ。人格や過去を無遠慮に暴こうとするな」
サビトガはハングリンの額を拳で押しのけ、床の上に起き上がった。
ハングリンはよろめきながら、ようやく笑顔を消す。赤い光の中で、ハングリンがささやくような声音で言った。
「レッジ君やシュトロ君は分かりやすい。彼らの目に浮かんでいるのはまっさらな憎悪と、怒りだから。憎むべき敵や事象があり、それらを怒りのままに叩き潰して幸せになろうとしている。彼らの目は復讐者の目だ」
「俺の警告が聞こえなかったのか」
「君も一見すると同じ目をしているように思える。だが表層に浮かぶ憎悪と怒りの底には、また別のものが沈んでいる」
立ち上がろうとするサビトガに、ハングリンは逆に壁の覗き穴のそばに寝転びながら、言った。
「虚無だよ。君は戦うことに、抵抗することに虚しさを感じている。挑むべき敵が強大すぎるのか? 理由は分からないが、とにかく君は他のメンバーと違って――」
幸せになりたいとは、思っていない。
言い切るハングリンはサビトガの表情を確認するや、ごろりと壁の方を向いてしまった。
そのままうそ臭い寝息を立て始める相手に、サビトガは拳を握りしめ――。
階段を上って来る少女の足音に、ぐっと、全てを呑み込んだ。




