七十五話 『歯ぎしり』
茜色の平原には、逃げ去った骸骨の痕跡が点々と煙を吐きながら転がっていた。
炭化した骨片、焼け焦げた人肉に、冷え固まった油と脂。それは砦からまっすぐ地平線へと続き、中途にある岩場の陰へと入り込んでいる。
サビトガは岩陰から上がるひときわ高い煙を眺め、ハングリンに目配せしてから足を踏み出す。
ハングリンが何か言いたそうに喉をふくらませたが、サビトガは無視した。敵の痕跡がふんだんに残され、その潜伏先が明確なこの状況では、確かに非戦闘員のハングリンを同行させる意味は薄い。
だがそれでも、ハングリンを砦に一人帰してやるつもりはなかった。砦の中庭に鎮座する魔の者の骨を前に賢しげな解説をした以上、彼には自分を襲った骸骨に関しても見識を述べてもらわねばならない。
それがことあるごとにサビトガ達を自分と同じ絶望に浸らせようとするハングリンの、当然の義理だ。彼の知見と案内はサビトガ達の大きな力となっているが、同時に先の見えぬ魔の島探索において不要な絶望を伝播させることは、刃を突きつけるに等しい加害行為でもある。
ハングリン・オールドという人物を最低限『敵』に回さぬためにも、彼との貸し借りのバランスは厳格に取っておくべきだった。
やがて骸骨の後を追う二人は、角ばった石の転がる岩場へとたどり着く。
焼けた骨片や人肉の跡は、岩場の最も大きな柱のような岩石の陰へと続いていた。そこから噴き上がる白煙と異臭に、サビトガは槍を構えながらゆっくりと歩を進める。
岩を回り込むと、追い求めた敵はあっさりと姿を現した。その身を焼く炎はすでに消えていて、しかし骨格の半分以上が黒く焦げつき、多少が炭化している。
サビトガは自分に体の側面を向けて座り込んでいる骸骨を、厳しい目で見た。割れた肋骨の鳥かごから他人の肉片をこぼす骸骨は、よりにもよって両手を胸の前で組み、うなだれて、祈るような姿で朽ち果てていたのだ。
脳裏に砦の中庭で座禅を組む、魔の者の遺骨が浮かぶ。
なぜこの怪物どもは、神や聖なるモノに対するような姿勢で死ぬのだ。それがサビトガには今更ながらに不快に思えた。
骨に歩み寄るサビトガに、背後からハングリンが声を投げてくる。「私なら近づかない」と。
サビトガは気合とともに槍を振り、炭化した骸骨の頚椎を叩き割った。派手な音を立てて骨が飛び散り、髑髏が地に落ちる。
サビトガは未だ祈りの姿勢のまま固まっている胴体を睨み、振り返らずに声だけでハングリンに訊いた。
「死んだと思うか?」
「分からない。そもそもその表現が的確かどうかも疑問だ。動き、戦い、捕食する骸骨。そんなものに生死の概念などあろうものか……」
「あんたは非力ゆえに戦いを避け続けてきた人間だ。だからこそ負傷を回避し、魔の島を最奥まで探検できたのだろうが……だが、その在り方は当然に脅威である魔の者との直接的な対決と、理解を不能にした。
あんたは魔の者の実態をほとんど伝聞と推測でしか語れないはずだ」
サビトガは槍を振り、祈る骸骨をなぎ倒す。地に突っ伏す異形を見下ろしながら、言葉を続ける。
「動く屍を超自然的な力……たとえば悪霊だの、邪悪な魂だのと紐付けて考えたい気持ちは分かる。だが俺は生体を相手にする処刑人、拷問官だ。息をして叫び悶える相手には、あくまで生物としての理解を試みたい」
「死霊のたぐいではないと言うのか? この骸骨が?」
「死体は痛みを感じない。叫び悶えるのは、命があるからだ。それは骨を削られたり、火を浴びせられたりすることで脅かされるもの……きっと具体的な『形』のあるものに違いない」
ふに落ちない顔をするハングリンが、それでもサビトガの言に興味を示して隣にやって来た。
薄煙を立ち上らせる骸骨を、二人はじっと見つめる。サビトガが動いていた頃の骸骨の姿を思い返しながら、大腿骨のあたりを指して、言った。
「骨を動かすのは筋肉だ。筋肉が伸び縮みすることで骨格を引き上げ、様々な動きを可能にする」
「骸骨が歩行していたからには、喪失した大腿筋に代わる何かが足を動かしていたことになるな。それが生体器官であるならば、おそらく筋肉と同じ場所に接続されているはずだが……」
サビトガが槍から仕込み剣を抜き、大腿骨の裏側に刃を走らせた。
つるつると骨をすべる刃が、不意にがちりと、何かに引っかかる。
目を丸くするハングリンの前でサビトガは刃を繰り、骨の表面に付着していた、透明の筋のようなものを引き上げた。
それはまるでカビやキノコの根のようで、骨の表面に薄く広く張り付いている。
サビトガは筋を刃でえぐりながら、「硬いな」と低く声を吐いた。
「恐ろしく強靭な筋だ。最初に槍を突き込んだ時、まるで金属を打ったような音がした。あれは骨ではなくこいつに刃先が当たったんだな」
「その筋が筋肉の代わりだと?」
「そのようだ。見てみろ、筋を引き上げると足の骨が持ち上がる。まるで傀儡(操り人形)の糸だな。おそらく水分の移動か何かで筋が膨張伸縮し、骸骨を動かしていたんだ。この筋こそが骸骨の本体だ」
「だとすれば、油や炎で倒せた説明もつくかもしれんが……その筋はどこにつながっている? 全身を這っているとして、発生源はどこなんだ」
サビトガは刃先で筋をたどり、骸骨の表面を削る。ところどころ焼き切れた線をつなぎながら、「凄いな」と喉骨のあたりを示した。
「透明だから分からなかったが、喉に声帯のようなものが構成されている。足の筋肉の代わりを担う筋が、そのまま声帯の役目も負っているんだ。原始的な、しかし万能の筋繊維だ」
「人間の筋肉よりはるかに効率が良いな……たった数本の繊維で声帯が作れるのか……」
「もっとおぞましい報告がある。肋骨の内側にも筋が張っているが、これには細かなひだがある。食らった人体の貯蔵庫に這うひだ……まず間違いなく、消化器官だ。腸のひだのように養分を吸収するんだろう」
本当に『人食い』だったわけだ。
サビトガは言いながら骸骨の全身を這う筋をたどり、その生態を暴いていった。
切り落とした頭骨も拾い上げ、調べる。すると耳孔に鼓膜に似た板が構成されていて、サビトガの声を受けると細かく振動し、筋を通して音を伝えているようだった。
眼窩にもびっしりと視神経じみた筋の伝達路が広がっていて、最も奥にある筋には眼球の水晶体のような、像を映す円盤が作られている。
細く、薄く、透明な繊維の群が、白骨の全身に取り付き、生体と変わらぬ器官機能を提供していた。そしてそれらは断裂した箇所をつなぎ合わせると、どうやら頭骨の内部から生えているらしかった。
サビトガはハングリンとうなずき合い、頭蓋の焼け焦げてもろくなった場所に仕込み剣の底を叩きつけた。
ばりばりと音がして、骨が崩れる。そうして頭蓋を外し、内部を茜色の天光にさらすと――。
そこには炎にあぶられて白く濁り固まった、脳髄があった。
ハングリンがおそらく出会ってから初めて、知的好奇心が満たされる快感の声を上げた。「死霊じゃない」と、その口が喜びもあらわにゆがむ。
「死霊や悪霊のたぐいが、脳器官などを必要とするものか。肉と臓器の大半を失った骸骨の頭部に、完全な状態の脳だけが残っている……これはつまり……つまりその……」
「極度に軽量化、効率化された生体。脳とその付属繊維だけで生命が成り立つ、擬似的な死体だ」
ハングリンがパン、と両手を叩き合わせ、サビトガに笑みを向けた。「そう、擬似的な死体骸骨」と、目に異様な光を宿して続ける。
「生物だ。これは生物なんだ。死体の姿をした生物。死んでいるようで生きている存在。異常な進化を遂げた脳が白骨を動かし息づかせていた。……だがなぜだ? なぜこんなモノが生まれた? 誰かが霊的なものや、魔力的なものを抜きに動く屍、怪物としてのスケルトンを作ろうとしたのか? そんな悪意が過去にあったのだろうか?」
「不死の水が関係しているんじゃないか」
つぶやくように言ったサビトガに、ハングリンが再び手を叩き合せる。
いつしか茜色が、より赤く世界を染めていた。
「生物が皮膚や肉を落としてなお、骨格だけで生存している。なるほど万物の理に反する『不死』じみた現象だ。だとするとこの骸骨の正体は? 不死の水を不十分に取り込んだ生物の成れの果て? あるいは不死の力がこの世に現出する過程で現れた、いわば失敗作のようなものか? だとすると不死の水とは……ひょっとすると誰かが作った霊薬、人工物の可能性も……」
「ハングリン」
サビトガが赤い世界に立ち上がりながら、探検家を呼んだ。
「楽しいか?」
ハングリンが、ゆっくりと笑みを消す。
サビトガの目が、長髪の闇に埋もれながら、にぶい光を放った。
「生を諦めなければ、その興奮をきっとこの先何度も味わえる。自分の狭い了見を捨て、俺や、他の探索者の足を引っ張るのをやめれば、だ」
「……」
「鏡を持っているなら、後で覗いてみろ。今のあんたはまるで――――新しい靴を買ってもらった、子供のようだ」
先に進みたくなったんだろう?
そう眼光を沈めるサビトガに、ハングリンはぎし、と、奥歯を強くきしませた。




