七十一話 『屋根』
草の丘はなだらかな傾斜を一切変えることなく続き、平地に降りるまでにはそれなりの時間を要した。
雲海から降りる広大な丘陵。しかしそこに生える草の丈は短く、生き物が潜めそうな草むらもない。
無人。その事実をたった一目で確信できる光景だった。人どころかネズミやカエルや小虫の影すらない、ただ草だけがはびこる広い広い土地。
不気味さに耐えかねたレッジが、サビトガの腕を取ってハングリンより先に目下へ急ごうとする。寝具やテントを背負った彼が丘を走れば転ぶのは目に見えている。なだめすかしながら、ペースを変えずに降下を続けさせた。
そうして平地にたどり着いた一行は、草以外に木々や石や土や、多少の花の色が散在する平原に臨んだ。遠くに切り立った崖や岩場が見えるその場所には、当然に背後の丘にはなかった物影、視界の及ばぬ領域が存在する。
それは本来危険や伏兵の可能性を示すことだったが、無人の大丘陵に怯えていたレッジは案の定ほっと息をついた。彼にとって生き物の不在が視覚的に理解できる丘陵は、敵の潜み得る平原よりも怖かったのだろう。
それは生理的には、確かに正しい反応だった。
サビトガ達は物影の復活した平原に踏み込む前に、一度休憩を取った。
地面に腰を下ろして足を休め、食事を取る。
レッジと少女はサビトガが持たせた食料入りの草の包みを広げ、他のメンバーは自分の荷物袋の中から携行食を取り出す。
マスやアイタケの燻製をそのまま齧り、生のグミの実と豆の芽を分け合った。
水を飲み、用を足し、体が落ち着いてから再出発する。先頭にはやはりハングリンが立った。迷いなく進む彼に、サビトガ達は今は黙って続く。
足下にびっしりと生えていた草が、歩を進めるごとにしだいにまばらになってゆく。靴先で土をけずるとたまにきらきらと微細な光が飛び散ることに気付いたシュトロが、かがんでそれらを拾い上げ、吟味した。光を放っていたのは透明な粒で、形も大きさもばらばらだった。
一つを舌にのせたシュトロが、直後に「しょっぺえ」とうなる。「塩だぜ、これ」と続ける彼に、ハングリンが立ち枯れたカバノキの裏を覗き込みながらうなずいた。
「止め海と隣接した空間だからね。たまに海水が湧いてきて、水たまりを作るんだ。それが蒸発すると、土に塩が混ざる」
「おい、大丈夫なのかよそれ。どっかの壁が崩れたら洪水になるんじゃねえか」
「たまに、だよ。海水が土を通ってくるのはごくたまになんだ。それも局所的かつ一時的なもので、必ず足下方向からしか浸水しないし、ちょっとした水たまり以上の大きさにはならない。すぐに蒸発してしまう。
きっと強固なプレートや岩盤の隙間を偶然にすり抜けてくるんだろう。怯えることはないさ」
サビトガは二人の話を聞きながら、草がどんどんまばらになってゆく平原を眺めた。もし草の隙間が唐突に湧いてくる海水の塩害によるものなら、平地より高度のある草の丘が無事なのも筋が通る。
ハングリンの言ったとおり、この世界にはこの世界なりのルールや道理があるのだ。それを少しずつでも理解していけば、今後の探索を有利に進められるかもしれない。
サビトガ達はハングリンから世界の法則の断片を講釈されながら平原を進み、時を費やした。草と土を踏み、たまに生えている木々や岩の陰を警戒し、名も知らぬ小花の色と香りを楽しみつつひたすらまっすぐに往く。
予告されていた魔の者との邂逅は未だ来たらず、他の何者との遭遇もない。
やがて明るいままの曇天の下、皆の顔に疲れの色が見え始めた頃。
平原の地平線から、何か大きな影が浮上した。
ハングリンがすかさずそれを指さし、口を開く。
「今日はあそこで休もう。この世界に夜はないが、時間的にそろそろ日没のはずだ。どうせなら屋根のある所で眠りたいだろう」
屋根。その言葉に顔を見合わせるサビトガ達を置いて、ハングリンはずんずんと歩調を速めて影に向かって行く。
――かくして一行は数刻後、平原のど真ん中に建つ建造物へとたどり着いた。
ハングリンの言った屋根は木と干し草でできていて、所々穴が空いては腐れている。
しかしながらそのシルエットは化け物じみて大きく、堂々としていて、地に崩れ落ちた大門を前にしてなお、サビトガ達を驚嘆させた。
「……これは……何だろうな……」
「何って……そりゃ……」
シュトロが、崩れた門を踏みつけて屋内に入って行くハングリンを、丸い目で見つめた。
「……砦、なんじゃねえの。恐ろしく古い、木の城砦……」
シュトロの言葉通り、サビトガ達の前には、まるで小山のような朽ち木同然の砦が、苔や雑草に侵食されながら口を開けていた。
生命の気配の希薄な平原、そこに建てられるにしては、あまりにも大げさな、本格的な拠点砦。
外壁の上には錆び切った設置式の大矢の発射装置がいくつも並び、投石器用と思われる丸石が山と積まれたままになっている。
まるで強大な敵を、軍勢を迎え撃つために用意されたのだと言わんばかりの砦の様相に、サビトガ達は自分達が歩いて来た平原を、一様に振り返っていた。




