六十九話 『足下の世界』
雲海。まごうことなき白い雲の群が、ゆったりと少しずつ形を変えながら足下を流れている。
サビトガは正気を保つために、雲以外のものに視線を当てようとした。自分の置かれた状況を見誤ってはならない。地下を目指して天上に達するなどということは、絶対にありえない。あってはならない。
まずは眼下の雲から、自分の足に視線を移した。洞穴を歩き続けた革靴にはしっかりと土と、踏みちぎった草の切れはしがついている。
次に足が立っている地面を見る。青草に覆われた地表を背後へと振り返ると、当然に洞穴の入り口が見えた。
洞穴は、高い高い断崖の根元に口を開けている。まばらに苔の生えた断崖の土壁を見上げたサビトガは、次の瞬間反射的にきしりと、歯を鳴らした。
断崖のはるか上、サビトガ達の頭上には、真っ白な空があった。
青みを一切おびていない、純白の天。そこに太陽はなく、他のあらゆる星の影もなく、ただ空全体が白く輝き、光を降ろしているのだ。
黄色い太陽光とも、青い月光とも違う光。頬を引きつらせるサビトガの横で、同じように頭上を見上げたシュトロが「雷の光だ」と声を上げた。
「稲妻の白い光――落雷の瞬間に世界を照らす光が、落ちる寸前で空に溜まってやがるんだ」
サビトガ達の視線の先で、ほの白い電光がパチパチと、空にヒビのような線を刻みながらはじけた。
帯電する空、そこから下りる光に照らされる雲海。
サビトガはしばし思考をめぐらせてから、ゆっくりと地面にうずくまったままのハングリンに目を向け、口を開いた。
「ここは、やはり未だ地の底か。頭上にあるのは空ではない。ただの土天井だ」
「……やはり賢いな、君らは。学のないやつらはこぞって幻覚だの、異世界に迷い込んだだのとほざくのに」
ハングリンはいとも簡単に絶望じみたポーズを解き、土の上に背を伸ばして座った。
大きく息をつくと、周囲の面々を振り返りながら緩慢な動きで頭上を指す。
「ガスが溜まっている。空気よりも軽く、人体に害を与えぬ無臭のガス。穴底の水たまりから噴き出していた泡と同じものだよ。それらが空気中の『電気』……雷の最小単位だとか、魔力粒子の一種だとか言われる異端学派の概念だが……それを吸収し、閉じ込め、発光しているというのが、あの擬似的な空に対する私なりの見解でね」
「『電気』の光……」
「空間の上端を特定のガスが占めることで、それ以外の気体はそこより少し下の中空に押し下げられる、というのが私の仮説でね。そうすると水気の塊である雲が我々の足下に留まっている理由付けにもなる。
もっとも、私は探検家であって学者ではない。その道の専門家が聞けば噴飯ものの仮説なのかもしれんがな」
「細かいことはいい。とにかくここが確かに地下で、俺らがいきなりどこぞの山頂に飛ばされちまったわけじゃねえんだって確信できりゃあな」
シュトロが自分の顔を叩き、ぶるぶると首を振る。ハングリンは立ち上がり、見渡す限りの雲海へと歩み出しながら、言葉を続けた。
「魔の島の、あるいはその周囲の止め海の下までにも広がらんかというほどの、巨大な地下空間。『地下世界』。それが最古の秘境の正体というわけだ。
この雲海の下に、雲を作るに十分な水分や、自然環境がある。魔の島の中心、巨大な穴底は、この世界への入り口に過ぎなかったということだな」
ガッカリするだろ?
そう口の端を引きつらせるハングリンに、サビトガ達は無言のまま松明の火を消し、彼の後を追った。




