六十六話 『言霊と怪物』
穴底での最後の夜が来る。
サビトガは焚き火を囲む人々に、まずは宣言したとおりのドブ色のカブトガニの卵を差し出しながら言った。
「明日の朝、ハングリンの案内のもと横穴を抜ける。その先は人外跋扈する魔の領域との話だ……食後に水浴びをして、垢を落としておこう。歯も念入りにみがいて体臭を消すんだ。魔の者が人間の臭い、気配を追跡してくるような敵ならば、これで不要な遭遇を避けられるはずだ」
「口をゆすぐだけじゃダメかい? 歯みがきの道具がないんだけど……」
レッジの言葉に、カブトガニの卵を匙でかき混ぜていたシュトロが露骨に嫌そうな顔をした。卵を盛った殻を振りながら「きたねえヤツだな」と、並びの良い歯を剥く。
「歯はいつもきれいにしとかないと命取りになるぜ。虫歯にでもなったら最悪メシが食えなくなるからな」
「シュトロはいつもどうやって歯をみがいてるの?」
「木の枝を折ってきて、皮をむいて、繊維を噛んでやわらかくしてからブラシにしてみがいてるよ。魚の骨をようじにしたりもするな」
「焚き火の底から炭を取り出して、石で潰して研磨剤に使っても良い。細かく砕いた炭は歯垢をよく落とすし、口の中を消毒してくれる。シュトロのブラシと併用すればかなり歯を清潔にできる」
シュトロとサビトガの言にほうほうとうなずくレッジが、何気なく口にしたカブトガニの卵の味にぴたりと動きを止めた。
匙をくわえたまま上目づかいに視線をくれる彼に、サビトガもカブトガニの卵を箸で口に運ぶ。
美味い魚介の卵は、まず何をおいてもぷちぷち、こりこりとした食感があるものだが、カブトガニの卵にはそういった心地良い歯ごたえはない。
基本的には硬くぼそぼそとしていて、歯で潰すとほのかな塩味と苦味が舌に染み込む。
はっきり言ってしまえば、まずい。調理の仕方によってはカニの卵に今一歩及ばぬ程度の味にはなると聞くが、もはやその風説自体が限りなく後ろ向きで、意気を削ぐ。
シュトロも少女も、カブトガニを食することに一切の快を見出していないようだった。黙々と卵を口に運び、ほとんど噛まずに飲み下す。ハングリンにいたってはカブトガニを再び火に投じ、そ知らぬ顔で空を見上げ星を詠むふりをしている。あまつさえそのまま消し炭になればよいと思っているらしかった。
サビトガはにわかに静まり返る晩餐の席に、空咳を一つ落としてからナマズの切り身を持ち込んだ。藻と皮を剥いた魚肉に枝を通し、焚き火に当てる。
ナマズは本来、美味い魚だ。ぷちぷちと音を立てて滴る脂に皆の顔色が多少良くなる。
少女の獲ってきた吸盤つきの魚も、同じように枝に通して火に当てる。魚の焼ける匂いが立ち上ると、気を良くしたレッジが思い出したように席を立ち、燻製器のアイタケを裏返し始めた。
平たく切り分けたアイタケは、まるでクッキーか煎餅のようにカチカチになっている。キノコ類の燻製は総じて味が悪くなりがちだが、あれだけの量があれば全員の荷物袋を食料で満たせるだろう。
このキャンプ地ですべきことは、あらかたやり終えたということだ。無意識に肩から力を抜いたサビトガは、空を見上げるハングリンにゆっくりと声を放った。
「他にも大勢の探索者がいると言っていたが……その連中もあんたのように、あの横穴を通ってこの場所に戻って来ることがあるのか?」
「ああ、まれにね。だが君達のようにキャンプは張らない。大抵は飲み水や食料を補給するためにちょっと立ち寄るだけで、すぐに横穴の向こうに帰ってしまう。長居はしないんだ。私も君達がいなければ、夜を明かさずにこの場を立ち去っていたろう」
「なぜだ? 何か理由があるのか」
「……言わなきゃ分からないかね」
ハングリンが視線を下ろし、サビトガを見た。その目にわずかな好奇の色が浮かぶや、にっこりと目じりを下げて続ける。
「怖いからさ。探索者は皆、この穴底で初めて魔王と出会う。魔の島の主を自称する、異形の怪物の姿を目の当たりにする。そいつは歴史上あらゆる戦士の刃をかわし、全ての優れた異邦人の死を見取ってきた存在。いわば魔の島にまつわる死と災厄の象徴だ。人情的に考えて、そんな恐ろしい存在が巣食っていた場所にキャンプを張れるわけがないだろう? 一刻も早く立ち去りたい、そう考えるのが普通だ」
「……」
「どんなに強く勇敢な人間でも、倒せない人外のいる場所を野営地には選ばない。察するに君達は、木の幹に文字を刻んだりもしないクチだろう?」
ハングリンの言葉に、サビトガはブナ森に散見した探索者達の書き置きを思い出した。方位記号や海岸からの歩数、心情の吐露を樹木の幹に刻みつけ、残された文字の群。
サビトガが不審に思い、その動機を推し量れなかった、先人達の奇行の痕跡だ。
「――伝説の魔境に挑む人間が、これまで誰一人生還できなかった死地に臨む人間が、心にのしかかる不安や孤独に耐えるために刻んだのがあの書き置きさ。自身の出自、宿命、心情……それらを文字に残すことで、同じ魔の島にいる誰かの目に留まることを願ったのさ。自分という人間をたとえ一端でも理解し、思ってくれる誰かが現れると、きっといるはずだと信じてね」
「……つまり、遺書のようなものか?」
「違う。遺書じゃない。遺書は死に向けて書かれるものだが、木の幹の書き置きは各人が生きるために刻まれる、生に向けた言霊だ。自分の記した文字は必ず生きた探索者……今現在魔の島を探検している『同志』に届くはずだと、まだ見ぬ仲間に読まれるはずだと、その確信のもとに残されたものだ。
過酷な冒険の渦中にいるのは自分だけではない。魔の島の伝説は打ち破れるのだと、不死の水は手に入るのだと、そう信じる者が書き置きのぶんだけこの島にいる。そう信仰することで我々は孤独や絶望に抗うことができたのだ」
ハングリンが自分を見つめるサビトガやシュトロに両手を広げ、まるで遠い昔話をする老人のような顔で笑った。
「木の幹に刻まれたおびただしい文字列の中に己が筆跡を加えることで、たとえたった一人ブナ森でさまよっていても周囲に誰かの気配を感じることができた。数人から成るパーティーで活動している者にとっても同じことだ。自分達以外にも苦難に挑戦している集団がいる、そう考えることで勇気をふりしぼることができた。
自分が他人の書き置きを目にしたように、他人もまた自分の書き置きを目にするはず。そしていつか合流し、ともに魔の島に立ち向かい、打ち勝てるはず。その思考ゆえに我々は幹に言葉を残し、見知らぬ同志と交信を続けたのだ」
書き置きは各人の存在証明。探索者達の戦意と決意の爪痕。
孤独と絶望の否定。時間を超えた絆の連鎖。
ハングリンは歌うように言った後、すっと笑みを消し、サビトガ達に「だが」と低い声を向けた。
「君達には理解できないんだろう。幹に刻まれた言霊をただの文字列としか認識できないのは、君達が人間離れした精神を持つ強者だからだ。孤独と絶望に魂を浸した経験があり、それでもたった一人で地獄を生き抜き、克服してきた。ゆえに常人の感覚が、恐怖が理解できない」
「勝手なことを」
「君達はおそらくパーティーである必要がない。個々人がすでに異形じみた魂の強さを持った『怪物』だ。だから私ごとき常人は……君らを愛することも、害することもしないほうが、身のためなんだろう」
一方的に結論を出したハングリンは「距離を置くべきだ」と言い残し、席を立った。
水辺に向かい、一足先に衣類を脱ぎ出すハングリンを、サビトガ達は思い思いの表情で見る。
火に当て続けた魚肉の群は、すでに脂を落とし切り、ぶすぶすと煙を上げ始めていた。




