五十二話 『物資補給戦 二』
「どぉーだぁー!」
レッジが大声でいばり散らしながら、ざぶざぶと水を蹴って岸に上がって来る。
サビトガはシダの束を足元に置き、亀に近づいてその種類を吟味してみた。
泥に突き刺さった甲羅は人間の頭部ほどもあり、表面がなめらかで、深緑の地色の上に黄緑色の模様がある。
おそらくはヌマガメの一種だ。甲羅に手をそえ、引き抜くと、足も首も引っ込めて防御態勢に入った亀がわずかに泡を吐いた。
「どうだーってお前……これ亀じゃんか。魚を狙ってたんじゃねえのかよ」
「あー、魚ね。あれはダメだね。やつらすっごく速くて、全然突けないね。それに比べて亀はいいね! ノロノロ泳いでたから簡単に捕まえられたよ! 時代は魚じゃなくて亀だね!」
動く獲物を捕らえた興奮からか、レッジはやたらに高い声で「タートル・エイジ!」と歌い踊りながらシュトロの言に応える。「毒亀だったりして」と意地の悪い笑みを浮かべるシュトロに、サビトガは「どうだろうな」と亀の甲羅を裏返しながら口を挟んだ。
「ほぼすべての種類の亀は食用にできると聞いた事がある。だが食性によって他の生物の毒を取り込んでいる個体もいるらしい。『毒見役』が必要だな」
「毒見役?」
躊躇なくレッジに目をやるシュトロに、サビトガはさすがに咎めるような視線を送った。亀を一度水に戻し、泥を落としながら、ゆっくりと言葉を継ぐ。
「小魚やヤドカリを捕まえて、亀の肉を食わせて様子を見よう。本当はネズミやリスの方が毒の判別には良いんだが……。無毒でさえあれば、亀は素晴らしい完全食だ。肉体の維持に必要な栄養を一気に補給できる」
サビトガは亀の尻尾側を持ち、焚き火のそばに置いた自分の槍へと向かう。今回はカバの木をテントの支柱に利用していたので、サビトガの槍を柱に使う必要もなかった。
石突を回し、仕込み剣を手にすると、サビトガは重力に引かれて伸び出していた亀の下あごをつかみ、くるりと逆さにする。
自重に引かれてさらに伸びる首を、次の瞬間すぱりと切断した。ごとりと落ちる亀の体に、シュトロが「へえ、そうやるのか」と声を上げる。
サビトガは亀の体を拾うと、シュトロがヤドカリを焼いている焚き火とは別の焚き火にそのまま放り込んだ。ぼすっと火の中に落ちる亀を見てレッジが「うわっ、雑!」と、なぜか嬉しげに叫んだ。
大きく硬い亀の甲羅をさばくのは面倒だ。剣の刃を傷めるリスクを負うくらいなら、甲羅ごと丸焼きにして食べる直前に砕いた方が良い。火を通した甲羅は当然にもろくなる。そこらの石で容易に砕けるはずだ。
そうしてサビトガ達は亀を火の中に放置して、また各々食料の調達作業に戻った。調子づいたレッジは今度は剣すら持たずに少女のいる水たまりに飛び込み、シュトロはヤドカリを火から拾い上げて、ヤナを仕掛けにかかる。
今度はサビトガも服を脱いで水辺に向かったが、すぐに水中には入らず、まずは岸の泥を素手で掘り返し始めた。レッジが亀を見つけてきたことで、サビトガには更なる食料のありかの見当がついていた。
はたして一時間ほど泥を掻いていると、サビトガの爪の先に硬い物があたり始めた。泥をすくい、水で洗うと、手の平の上に楕円形の真っ白な卵が残る。
ブナやカバの木の葉が生い茂る季節は、同時に多くの亀の産卵期でもある。亀の持つ毒のほぼ全てが食性によるものであることを考えれば、卵は亀肉よりも安全であるはずだった。
サビトガは卵を取りつくさぬよう注意しながら、三十個ほどを拾い上げ、シダの束の上に置いた。息をついていると、ふと掘り返した泥の中に動くものがある。手ですくってみれば、小さなサワガニがひっくり返ってもがいていた。
サワガニは真に清浄な水にしか棲まない生き物だ。サビトガは小さなはさみに指をつねられながら、ふと、自分のいる穴底の風景を改めて眺め見た。
海抜はもちろん、地下に通った産道よりも明らかに低い位置にある、大地の底の底。本来完全な暗黒に支配されているはずのその場所に、地上の草原や、ブナ森よりも豊かな生態系が育まれている。
……と、言うより……地上とはまったく別の、異質の生態系が構築されている。
地上と穴底とでは、生えている植物も、棲んでいる生物もことごとくその種を異にしている。地上にカバの木は一本も生えていなかったし、穴底にもまたブナの木は生えていない。
無風の島の中心に空いた大穴の底なればこそ、地上の植物の種や小動物が迷い込みにくく、生態系が独立しているというのは理解できる。だがそれならば、地上よりも貧弱な生態系になるのではないかと、サビトガは思った。
外部の影響を受けにくいということは、裏を返せば自然環境を渡り歩くタイプの鳥獣や昆虫の恩恵を生態系が受けられないということだ。環境のサイクルは穴底の中で完結してしまい、幅のない、変化に弱い生態系が出来上がる。
日照時間一つをとっても、深い穴底には地上の数分の一程度の間しか陽が差さないはずだった。
地上世界が穴底よりも多くの探索者の干渉を受けていて、かつ回転する地面のプレートのせいで動植物にとっておそらく過酷な環境にあるとはいっても、それでも穴底のほうが発達した生態系を有しているのは、理にかなっていないように思えた。
逆に、あえてそこに納得できる論理の筋道を通そうとするならば、考えられる可能性はさしあたり二つある。
ひとつは穴底の先に地上には存在しないタイプの、何らかの自然の動力源ともいうべき特殊な資源があるということ。外部環境との隔絶や、日照時間の短さを補って余りある、強大なエネルギー源が地下に存在している可能性だ。
それが不死の水と関係するものか否かは別にしても、とにかく地上世界にはない資源が穴底にあるとすれば、生態系の豊かさは説明がつくかもしれない。
そして二つ目の可能性はもっと単純に、穴底の環境と地上の環境は、もともと別個のものとして発生したという可能性だ。両者は同じルーツから発生した自然環境ではなく、地下は地下、地上は地上で長年別々の環境進化をたどっていて、あるとき突然大穴を介して入り口がつながったという可能性。
二つの世界の生態系は元々自立していたから、その性質に類似性はなく、また依存性もない。地上の動植物が必要とする環境よりも、より劣悪な環境で穴底の動植物が生存できるのだとしたら、あるいは魔王の言う『殺すべき魔の者』も、そして魔王自身も、地下環境に順応進化した何らかの生物である可能性が――――。
「どぉおおーだァーッ!!」
こね回していた思考を、若い叫び声と水音が切り裂いた。
顔を上げれば、ずっと水に入っていた少女が自身の身ほどもあろうかというマスを頭上に掲げ、勝ち鬨を上げている。
少女のナイフをエラの横の急所に突き立てられたマスは小刻みに痙攣し、尾をとらえようとするレッジの顔をまさにその尾びれで叩いていた。
レッジが顔をのけぞらせ、足を滑らせて水中に転げ没するのを見たサビトガは、一旦思索を切り上げて、彼らの加勢に駆け出した。




