五十話 『啓示』
「――魔王――」
その単語を、サビトガはまるで毒見をするかのように慎重に舌にのせた。
魔の者の王。あるいは魔の島の王か。しばしば人類の天敵を表す言葉として用いられるそれを平然と名乗った相手に、サビトガは逆にいくぶんか殺気を抑えた声を返す。
「害意はないのだな」
「害意を向けられぬ限りは」
「産道の民を守護し、異邦人を導くとは?」
「言葉の通りだ。産道の民には使命の成就の道筋を、異邦人には不死の水の在り処を、我は啓示する。だがこれは無償の慈悲ではない。お前達は我の望みを叶え、その対価として成功を得るのだ」
魔王が、地に落ちた右手でサビトガの背後を指した。振り返れば、水を泳いで来たシュトロが岸辺に伏せ、剣を手に泥と草の間から様子をうかがっていた。
顔をしかめるシュトロに、魔王が腐った息を吐きながら言う。
「我に剣を向けずとも、お前達はこれから数多の敵と刃を交わし合うことになる。血にはやるな、死に急ぐな、異邦人達。それは我が望みではない」
「よく喋る化け物だな……しかもなにやら、俺達を使う気でいやがるらしい」
気にいらねえ。そう吐き捨てるように言いながら立ち上がったシュトロに、サビトガはふと気づいて、「レッジは?」とたずねた。
また溺れているのではと危惧するも、シュトロは口をへの字に曲げて剣先で頭上を指す。
「ビビッて飛び込んで来ねえ。ほっとこうぜ、暗くなりゃ怖くなって追ってくるだろ。それともそこの魔王さんの『導き』とやらで何とかしてもらうかい。人間を操れるんだろ、意のままにさ」
「我が導きは異邦人には効かぬ。魔性の術は万能の力ではない。そこには厳格な規則性と因果が求められる。……産道の民は我が授けし使命に魂を捧ぐ血族。ゆえに我が言葉、導きを拒めぬ」
「あんたが授けた使命? じゃ、産道の民が砂の道を作ったり、異邦人を選別して殺したり案内したりしてきたのも、元を正せば全部あんたの差し金ってことか。魔の島で起きるほとんどの出来事の黒幕が、あんたってことか」
シュトロは剣で宙をかきながら、「ますます気に入らねえ」と魔王を睨んだ。
魔王はシュトロとサビトガの視線を受けながら、ごろごろと水がうずまくような音をどこからか響かせ、ゆっくりと歯列を開く。
「――渇いているのだろう、異邦人達。その魂が、人生が、不死の水を求めるほどに枯渇しているのだろう。ならば与えよう、禁断の水を。それを汲む手段を。我は啓示を下す。それを拾うも捨てるも、お前達次第――」
突如、サビトガ達の後方で水しぶきが上がった。思わず振り向いたサビトガとシュトロの耳を、細く冷たい指が同時につまみ、腐った水音の声を注ぎ込む。
「これより出会う全ての魔の者を殺せ。あらゆる道を往き、島から魔を駆逐せよ」
その行為の果てにのみ、不死の水が在る。
サビトガ達が耳をつまむ指を払い、武器を手に再び魔王の方を振り返った時。
すでにそこには、何者の影もなかった。
「……俺は信じねえ。信じるに足る要素が何一つねえだろ、あの化け物にゃあよ」
「だが、その魔王のおかげでオマエ達は穴の底に降りることができたんだろう。魔王がワタシを操って水に飛び込ませたから、水中に危険がないと分かったんだ」
日の落ちた岸辺に座るシュトロと少女が、草の上に起こした焚き火越しに声を交わす。
岸の近くに生えていた樹木がブナではなく、カバの木だったおかげで、サビトガ達は昨夜よりずっと楽に火を起こすことができた。カバの木の樹皮はそれ自体が燃えやすい上に耐水性が高く、木が健康である限り樹皮の内側は常に乾いている。燃料としては最高の素材で、煙もほとんど出さずに燃やすことができた。
サビトガは人間があたるためのものとは別に、濡れた衣類やテントの天幕、草の寝具を乾かすためのふたつ目の焚き火を起こしながら、少女に「本当に大丈夫なのか」と声を放った。
魔王の言葉通り、少女は両目に宿った光がすっかりこぼれ切ると同時に正気を取り戻した。肉体的にも精神的にもダメージを受けた様子はなく、まるで昼寝でもしていたかのようにけろりとしている。
だが、だからと言って安心などできようはずもなかった。サビトガは火に枝をくべながら、少女の様子を用心深く観察し、言葉を継ぐ。
「操られた、と簡単に言うが、魔王に指さされて以降の記憶がまったくないというのは看過できん。人間が気を断ち切られ、無意識の内に他者に肉体を操作される……魔術の虜になるということがどれほど心身を蝕むことなのか、俺には想像もつかん」
「心配するな、サビトガ。本当に何ともない。魔王は自分を産道の民の守護者と言ったのだろう? その言葉が本当なら、きっとワタシより前に来た産道の民もみな魔王に操られて、坂道の果てから水に飛び込んだんだ。異邦人達が尻込みして後戻りしないように……使命を完遂できるように、案内の手助けをしてくれた……そういうことなのだろう」
「どうだかな。俺は今、あそこから安易に飛び降りちまったことを後悔し始めてるよ」
シュトロが指さす方向には、星の明かりを受けて闇にうっすらと浮かび上がる、坂道の切れ目がある。「帰りはどうやって戻る?」と続けるシュトロに、サビトガと少女は無言で顔を見合わせた。
「あの場所にロープも梯子も、足掛けの杭すらも打ち込まれてねえのは、つまりそういうことなんだろうよ。降りる方法を考える前に魔王の妙ちくりんな魔術に操られた産道の民が飛び込んじまうから、みんな安易に後を追っちまうんだ。長い坂道を戻るより、ガイドを失うより、水に飛び込んだほうが良いってな。決断を急かされるんだ。
つまり魔王は産道の民を操ることで、異邦人を後戻りのできねえ穴底にみずから飛び込むよう仕向けてるってわけさ」
「……理知と意志を放棄させる、『導き』か……。だが真に人を手玉に取ろうとする者が、進んで自らを魔王だの悪徳だのと言うだろうか。悪意ある者はいつも聖なるモノや、善人のつらをかぶっているものだ」
「あの顔で善人面するのは骨が折れそうだけどな」
シュトロがふん、と鼻息を吹きながら言った直後、彼の背後でざば、と水音がした。
見れば真っ黒な水の中に入っていたレッジが、肌着ひとつでガチガチ歯を鳴らしている。じろりと視線をくれるシュトロに、レッジは左手に下げた水袋を差し出しながらくしゃみをした。右手には彼の剣が、抜き身で握られている。
「やっぱりダメだったよ……一度尾ひれに触ったんだけど……」
「だから日が落ちてからの魚突きは無理だっつったんだよ。お前、ただでさえどん臭いんだから」
「だって僕の飛び込みのせいで魔王が逃げたんだから、汚名を返上したいじゃないか。僕は人生に負い目を残さないタチなんだ」
「どの口が言うかね。……なんだこりゃ、魚が獲れないからって貝なんかほじくってきやがって」
しかも全部ヤドカリつき! と、シュトロが水袋の中身を草の上にぶちまける。
二枚貝がごろごろと地面を転がり、一つがサビトガの足を叩いた。
貝殻に空いた穴から、ヤドカリの目が覗く。サビトガはそれをじっと見つめながら、やがて深く息を吐き、つぶやくように言った。
「これより出会う全ての魔の者を殺せ……か。魔王が助言者であれ、食わせ者であれ、この穴底の先に良くないものが待っていることは、間違いないようだな」
皆の目が、カバの木立ちの向こうに広がる闇に向けられる。
虫の音一つ聞こえぬ夜の静寂に、何かが水を跳ねる音が、みょうに大きく響いた。




