四十九話 『ユーテラス・ディファイラー』
刃が飛沫を飛ばしながら空を切り、異形の首根へと振り下ろされる。瞬間、異形が少女に巻きつけていた腕をほどき、鞭のようにしならせてきた。
爪の伸びた指先がサビトガの目に迫る。とっさに首をひねりかわすと、異形の冷たい手の平がぺたりとサビトガの顔と肩に張り付いた。
あっと思う間もなく、天地が逆になった。首と肩口がめきりと悲鳴を上げ、力任せに投げ飛ばされた体が草に叩きつけられる。
受け身も取れずに仰向けになったサビトガを、異形が暗い単眼の瞳で見下ろした。
「――」
小さく、くぐもった声が異形の中から放たれた。地に片手をつき、身を起こすサビトガの前で、異形の眼球が肉の裂け目の奥に沈む。
つるりとした頭部に唯一刻まれた裂け目、穴の中から、今度は真っ白な歯列が浮上してきた。目を剥くサビトガに、裂け目の奥の歯はがちがちと音を立てながら、明瞭な『言葉』をつむぐ。
「『殻の蜂蜜漬け』……という言い回しを、知っているか」
「! 何っ……!?」
「実のない理念や思想を、甘ったるい美辞麗句で飾り立て、知性のとぼしい者に受け入れさせることを皮肉った言葉だ。いかに甘くとも殻は殻。それ自体は何の足しにもならんということだ」
異形の放つ人語は明瞭でこそあれ、ところどころ腐った水をかき回すような、粘着質で不快な響きがまとわりついていた。
立ち上がるサビトガに、異形は長い長い腕の先についた手を草の上に転がしたまま、さらに言葉を向ける。
「蜜をぬりたくった殻を貧者に食わせ、飢えさせたままに甘味を教え、依存と盲従の毒を仕込むは悪しき聖職者の常套の手。偽りの充足に理知と意志を放棄し、他者に意のままに操られること、その罪悪を聖なる者と神々は『導き』と称した。古来より、宗教を『武器』として振るう者は、みな同じことをしてきた」
「……?」
「だが、我が差し出す殻は、ひたすらに苦い。それこそは我が不徳だ」
眉根を寄せるサビトガの目の前で、不意に異形の目の前に立っていた少女の体が揺れた。がくりとひざをつく彼女にあわてて駆け寄り、身を支えると、少女の目が青白く発光している。
それはまるで鬼火のような、命尽きる寸前の蛍の灯のようなうつろな光で、まぶたからは青い光の粒子が、砂のように音もなくこぼれ続けていた。
「彼女に何をした」と、サビトガは再び異形に目を向ける。相手に知能があると知ったからこそ声音は低く、殺気を隠しはしなかった。
「お前はここから、上の坂道にいた俺達に指を向けてきた。だがその指先は俺やシュトロではなく、この娘を指していたんだ。お前に指された直後にこの娘はものも言わず水に飛び込み、一目散にお前の元に馳せ参じた。……何か術でもかけたか。魔性の力でこの娘を魅入らせたか」
「その光に害はない。我はほんの一時『導き』を与えたに過ぎぬ。全ての光の粒が抜け落ちれば、元の娘に戻るだろう」
「何よりだ。だが謎かけのような言葉を吐き続ける限り、こちらも槍を収めはしない」
サビトガは暗い視線を異形に向けたまま、少し間を空けて「何者だ」と問うた。
異形の歯が一度騒々しくがちがちと音を立て、それから、地面に落ちた右手がゆっくりとサビトガに向かって開かれた。
「我は最古の秘境の番人。産道の民の守護者にして、優れた異邦人の最後の導き手。あるいは、魔の島の秘宝、不死の水を封印する者」
サビトガの腕の中で、少女が光の粒子をこぼしながら、ぴくりと体を震わせた。
「だが――この姿、ありさまを目にした者の多くは、より俗なモノとして我を捉える。魔の島の最奥に巣くう、悪徳の知性。最も憎むべき歪な魔の者。
『魔王』と。そう人々は、我を呼んできた」




