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棺の魔王 (コフィン・ディファイラー)  作者: 真島 文吉
棺の魔王0 -魔王の処刑人- (旧題 ヘッズマン・グレイブ)
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四十八話 『水底の瞳』

 頭から落ちてはならない。水面までの距離は、人間が無傷で飛び込める限界距離を超えている。頭から着水すれば首の骨が折れ、腹や背中が水面に触れれば内臓が破裂しかねない。


 足だ。両足のかかとを一本のくいのようにそろえて水に打ち込み、衝撃を体の外側へ逃がす。それが生き残るために取れる、最も安全な着水姿勢だった。


 サビトガはにぎった槍と手足を使い、空中で必死に体勢を整える。先に飛び降りた少女にも警告しようとしたが、彼女の姿は視界のどこにもなかった。両手先を突き出した槍のような姿勢で、サビトガより遠い水面へ飛んで行ってしまったのだ。


 頭上で、シュトロとレッジの声が聞こえる。次いで背中から、少女の着水の音も聞こえた。


 全身の筋肉に力を込め、目をかたくつぶった瞬間、すさまじい衝撃とともにひざから先の感覚がなくなった。


 一瞬にして全ての音が耳から遠ざかり、全身の皮膚がしびれ、閉じていたまぶたが勝手に開いた。


 青い水の世界に、あぶくの群が飛び交っている。光のすじが踊る水中を、サビトガとともに落ちてきた土くれが気泡の尾を引いて沈んでいった。


 不思議と、苦痛を感じなかった。覚悟していた骨折の痛みや意識の薄れはなく、ただただ皮膚だけが着水の衝撃にしびれている。それゆえにか、水の冷たさも感じない。開いた両目に触れる水とあぶくの感触が、サビトガの意識を逆にとぎすまし、周囲を観察する余裕を生んだ。


 やわらかい水だな、と思った。着水時の衝撃こそすさまじかったが、水はサビトガの体を思ったほどはじかず、深く深く底の方へとみ込んでいる。妥当だとうな着水姿勢を取れたとはいえ、少々沈み過ぎのように思えた。産道の地底湖とは、水の質が違う。


 目玉を転がせば、サビトガの周囲以外にも無数の気泡が水底の方から水面へとわき立っているのが見えた。きらきらと光を反射して火の玉のように輝くそれらは、川のような流れを持たない水たまりに生ずるものにしては、数が多い。


 気泡の上がって来る水底は遠く、サビトガのはるか足下にある。青い闇をはらんだそこにはたくさんの岩が沈んでいるようで、気泡はその岩の隙間から吐き出されていた。


 ブナの森が作り出す空気が何かの都合で水底に回ってくるのか、あるいは産道の洞窟にたまっていたガスと同じものが噴出しているのかは分からないが、サビトガは、あるいはこの気泡こそが己を救ってくれたのかもしれないと考えた。


 多量に気泡を含む水は、そうでない水よりも着水時の衝撃をやわらげる。常に底から気体がき上がるこの水たまりは、坂道から転落する者の体を極力傷つけぬ作りになっているのかもしれない。


 大穴を降下する坂道が中途で消失していた事実が、今更いまさらながら意図的なことのように思えてきた。一見無謀に思える飛び込みを敢行かんこうした者だけが、穴の底にいたることができる。


 それは『優れた異邦人』を選別する、最後の試練なのかもしれない。


 サビトガは足をゆっくりと動かし、ダメージのないことを確かめてから水面へと泳ぎ始めた。着水の衝撃に麻痺まひしていた感覚はすでにもどっていて、肌をなでる気泡のくすぐったい感触が神経をなだめてくれた。


 水たまりには十分な水深があり、底から伸び出した岩もない。シュトロとレッジを呼んでも大丈夫だろう。そう考えながらサビトガは水面に手を伸ばし、やがて水のまくをくぐり、大きく息を吸い込んだ。


 何度か深く呼吸を繰り返し、ねる心臓を落ち着かせてから、頭上から聞こえる仲間達の声に手を振ってこたえる。「大丈夫だ! 足から落ちて来い!」――そう叫ぶと、サビトガは首をめぐらせて少女の姿を探した。


 ゆれる水面の向こうに、岸に向かって泳ぐ少女の頭が見え隠れしていた。サビトガは槍を水底に向け、足だけを動かして少女を追う。


 彼女がなぜ何のためらいもなく水に飛び込んだのか、岸に見えた人影に近づくのか分からなかった。だがとりあえず、彼女を一人で岸に上げるわけにはいかない。サビトガは背後にシュトロかレッジの着水音を聞きながらも、振り返らずに水をり続けた。


 巨大な水たまりを岸に向かって泳ぐにつれ、しだいに水底の岩が気泡を吐かなくなり、水の透明度が増してきた。前方の少女の姿が水越しにも確認できるようになり、水中をゴミのようなエビや、何かの幼生がただよい始める。


 サビトガはつい視線を下ろし、水底の様子をうかがった。せりあがってきた水底にはコケの生えた岩が転がり、その隙間に無数の白い二枚貝がはさまっている。二枚貝のいくつかには穴が空いていて、そこからヤドカリのような生き物の目がのぞいていた。


 閉じたままの二枚貝に潜む珍しいヤドカリの上を、不意に影のような小魚の群が横切る。その後を追うのは、一抱え以上もあろうかというマスに似た魚。


 食料を切り詰めてたどり着いた大穴の底には、期待以上の光景が広がっていた。無意識に槍をにぎる手に力を込めるサビトガの耳に、少女の身が水から上がる音が届く。


 はっと視線を前に戻し、水をる足を速める。岸はすでにすぐそこまで迫っていて、草木の匂いが水面に下りてきていた。


 水をかき、蹴り、急ぐ。やがて浮上してきた水底が岩々(いわいわ)と決別し、やわらかい泥をサビトガの足に差し出した時。


 サビトガは、岸辺で少女を抱きしめている人影のなりに、絶句した。


「……これは……!?」


 泥のぬかるみの先。短い草が生い茂った地面の上に立つ人影は、黒いローブをまとった細く長い腕を、少女の胴に幾重いくえにも巻きつけていた。


 それはまるで樹木に寄生する寄生植物のつるのようで、静かに脈動を繰り返し、指先で虚空をなでている。人の手の形をしてはいるが、その長さとやわらかさは、中に骨が通っていないとしか思えなかった。


 人影は……いや、少女を抱く『異形』は、ローブのフードに包まれた頭部を、おもむろにサビトガへと向ける。


 人の肌の色をした肉塊が、フードの奥から得体の知れない音を立てた。目も鼻も口もない頭部には、まるで二枚貝の穴のようなちっぽけな裂け目がたった一つるだけだ。


 その裂け目から、水底の生き物に似た眼球がのぞいた瞬間。


 サビトガは反射的に槍を振りかざし、異形に飛びかかっていた。

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