四十四話 『ケダモノの花弁』
シュトロが壊血病の完治を認められ、再び施療院の門をくぐることを許されたのは、入院から実に百日以上が過ぎた頃だった。
とはいえ、吐血や足腰の萎え自体は十日を過ぎた時点では収まっていて、残りの日数はもっぱら体力づくりと、壊血病以外の外傷の治癒にあてられていたのが実情だった。
シュトロはその間可能な限り尼僧達に仕事を回してもらい、院内の清掃や、簡単な雑用に力を尽くした。尼僧達はしばしば無理をするな、働きすぎるなと忠告してきたが、祖国の地獄のような労働を思えばまるで体操のようなものだった。むしろ自分の消費した薬品や食料の対価がこんな簡単なことで支払えるものかと、もっときつい仕事をもらおうとしては、尼僧達の説教を喰らっていた。
退院の際、入院中に着ていた療養服と紐靴を返却し、荷物を返してもらうと、以前履いていた靴に足が入らなかった。国民服も袖が通らず、無理に着ると肩口から音を立てて破れてしまう。
途方にくれるシュトロに尼僧達は笑いながら「健康体になった証拠」と、一度は返却した療養服と紐靴をそのままゆずってくれた。
シュトロは恐縮しながら代金分の奉仕を申し出たが、彼女らは不要だと首を振る。そんなことよりどこか行くあてはあるのかと訊かれ、シュトロは頭をかきながら、あいまいにうなずいた。
「こちらのお国は、俺の祖国よりずっと懐が深い。祖国で生きることに比べれば……なんとかなります、きっと……」
「もし食べるのに困ったら、私達の教会の本部を訪ねなさい。医療と同じように、この国では生活のための労働もまた施しの一つとして、官から民に提供されています」
シュトロは労働を施しと言う尼僧達の感覚に、みょうに恥じ入って顔を伏せた。
過酷な労働を義務とし、善悪観念の根幹とする祖国の姿勢が、その浅ましさが恥ずかしい。労働を人が生きるための手段ではなく、条件としてきたルイン連邦の国としての品格が、シュトロを救ってくれた尼僧達の国のそれよりはるかに劣っているように思えて仕方がなかった。
亡命者が、すでに捨てた国に恥を感じる。不条理に思えるが、シュトロにとっての祖国はやはりあの、飢えと苦痛に満ちた、極寒の連邦なのだ。
低劣な国。野蛮な連邦。そこに生まれ育ったシュトロ自身もまた、けっして上等な人間ではない。多くの人間の血と臓腑を浴びたシュトロが尼僧達の慈悲を受けるのは、本来筋の通らぬことだ。
――彼女らを、騙したような気がした。
彼女らはきっとシュトロを、哀れな無垢の人として世話したに違いないのだ。よもや己の村の住人をまるごと、親兄弟もかまわず皆殺しにした殺人者とは思っていなかっただろう。
祖国に対して感じていた恥は、いまや自分自身に対するものに変わっていた。
このまま、何も明かさずに別れて良いのか。この素晴らしい人々を、たばかったままで良いのか……。
「幸せにおなりなさい」
垂れていた頭に、心臓が締め付けられるような、限りなく優しい声が降った。
地に向いたままのシュトロの目が、まるで紙細工のようにゆがむ。優しい声は、シュトロの返事を待たずに、次々と降り積もる。
「ひどいことは何もかも忘れて、人生を楽しみなさい」
「好きなだけ自分を愛し、人を愛しなさい」
「泣いた分だけ、笑いなさい」
「それがあなたの務めですよ」
「務めを果たしなさい、シュトローマン。…………あなたが、たとえ、何者であろうとも」
あの日、月光に背き影を見つめていたカカシの目は、泥のような闇にまみれていた。
たとえくずおれようとも、顔面が見苦しくゆがんでいようとも、同じ目で尼僧達の言葉を受け流すことだけはできなかった。
月光に顔を向けろ。人の善性の光を、両の目で受け止めろ。
シュトロは精一杯の、笑顔とも呼べぬ笑顔を作りながら、尼僧達に「はい」と、濁った声を返した。
世界はどこまでも正常で、情愛に満ちていた。
悪や不合理が存在しないわけではない。人の営みには必ず邪悪な問題がつきまとい、血が流されることも、戦火が巻き起こることもある。
だが、悪が猛威を振るっても、世のどこかには必ず対極のものが存在している。悪に対抗しうる、輝かしいものが息づいている。人々はそれを知っていて、信じていて、だからこそ希望を捨てずに生き続けることができる。
闇とともに、常に光がある。それが人類の大多数が住まう本当の『世界』だった。
だからこそシュトロは、自分が世界の最果ての、まるで蓋をされた穴倉のような、真に光差さぬ地獄の辺境に生まれたことを心から恥じた。
世界のあり方と決別し、外界の光を遮断し、ひたすらに汚物のような闇を溜め込んだ連邦。人が必死に灯火を生み出しても、その光はすぐに周囲の闇に呑み込まれ、燃え広がることがない。
悪は際限なく栄え、善すら詐称し、国と同化する。そして人を、永遠の闇に閉じ込めてしまう。
シュトロは世界に生きていたのではない。世界たりえぬ、人の国たりえぬ、暗闇の中に囚われていただけだった。そして盲目の地虫が土中で互いを食い合うように、同胞を殺し、罪を重ね、絶望にまみれていたのだ。
二度と地虫にはもどらない。世界の光に目を焼かれぬような、真っ当な人間になる。
人生をやり直す。シュトロはそう心に決めて、港町ブゼニエで一人の男として生き始めた。
幸い、港の荷積場が人手不足で、すぐに働き口が決まった。責任者はシュトロの療養服を見るや、彼の出自や住所を問うことすらせず、ただ施療院を退院済みであることだけを確認して、現場に組み込んでくれた。
仕事はきつかったが、昼には大きなパンと塩の塊がもらえ、水をいくらでも飲ませてもらえた。
しかも、給料は即日払いだった。シュトロは生まれて初めて手にした銅貨の感触に感動し、どうしても使うことができずに、その日は桟橋の陰にうずくまって寝た。
次の日も同じように働き、食いでのあるパンをもらい、銅貨を手に入れる。ひたすら荷の積み下ろしを続けるだけの仕事だったが、同僚達が効率のいい荷物の運び方や、腰を痛めない持ち上げ方を教えてくれるおかげで学ぶことも多かった。
各人が無言で、機械的に作業を遂行するだけのルイン連邦の労働とは質が違った。労働者達は自分が快適に仕事をするためには、未熟者に積極的に助言をし、技術を分け与え、育てねばならぬと考えていた。横のつながりというものを重視し、多少手間をかけてでも頼りになる仲間を作って結束しようとした。
他人に貸した力が、将来必ず自分に報いてくれると信じているのだ。だからこそ恩を受けた者もその信頼に応えようとし、新入りが現れると先達にならって同じことをする。
助け合い、支え合う。シュトロが祖国で得られなかった人間関係が、当たり前のようにそこにはあった。
そんな労働者達が、宿も取らず桟橋で夜を明かし続けるシュトロをいつまでも放っておくはずがなかった。
シュトロは三日目の仕事終わりに仲間達に誘われ、町に連れ出された。港と施療院以外の場所に行くのは初めてだったが、先導する音頭取りの男がシュトロより年下だったせいか、不安は感じなかった。
人と、明かりに満ちた盛り場。祖国では見たことのなかった『店』というものが、数え切れぬほどに軒を連ね、港を訪れる船がもたらす数多の品々を通行人に差し出している。
お前がかせいだ金はこういう所で使うんだ。仲間の一人がそう言い、目の前であざやかな緑色をした楕円形の実の詰まったかごを、銅貨一枚で買って見せた。かごは皆に回され、シュトロにも実が渡される。
周囲にならって皮ごとかぶりつくと、凄まじい酸味が口中を刺した。驚きながらも果肉を呑み込むと、刺激の後にさっぱりとした香りが鼻に抜けてゆく。
檸檬といって、酸味で内臓を浄化してくれる果物なのだと教えられた。
仲間達は盛り場で様々な物を買い、その日の稼ぎで夜を楽しんだ。食べ物や、酒や、服や靴、木の板に書かれた読み物や、玩具を買う者もいた。
好色な親爺は女性を雇って酌をしてもらい、唄好きの老人は詩人に長めの一曲を頼む。
金は、まさに何にでも代わった。あらゆるものが金で買えた。
労働の対価が金で支払われるのは、人間の働きこそが市場の全てを生むからだ。市場を支える働きをした者全員に、市場のあらゆるものを買える金が、権利が与えられる。それは当然のことなのだと、仲間達はシュトロに肉や酒を押しつけながら語った。
シュトロは、やがて酒が回ってすっかり出来上がった彼らに引きずられるままに盛り場を後にし、荷積場にほど近い、労働者用の安宿に入った。
宿は古い造船所をそのまま流用したもので、建物中に灯り用の魚油の臭いが充満していた。個室がない代わりに他の宿の半分以下の値段で泊まれるというこの施設を、仲間達はシュトロの寝床に強く推してきた。宿に泊まっている者のほとんどが荷積場の労働者で、困った時に住人同士で助け合えるというのが、その理由だった。
シュトロは仲間達の提案に同意し、以降の夜を彼らと同じ宿で過ごすことにした。
桟橋で眠るようなことは二度としなかった。真っ当な人々と同じ生き方を、同じ感覚を得ようと意識して努め、振る舞った。
懸命に働いた。懸命にかせいだ。懸命に食べ、懸命に眠った。
六日に一度、港の荷積作業が完全に停止する安息日には仲間達にならって朝から遊びに興じ、釣りや水泳や、玉遊びや、見世物を楽しんだ。
たまに船の少ない日や、嵐が来て仕事の潰れる日が出ると、施療院を訪ねて奉仕に加わった。尼僧達はシュトロを覚えていてくれて、以前と変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
――何もかもが楽しかった。何もかもが輝いて見えた。
正常な世界で正常な生き方をすることで、自分の魂を支配していた『歪み』が、異常さが抜け落ちてゆくかのようだった。
このまま行けば、きっと自分はこの国の人々と何一つ変わらない、真っ当で正常な人間になれる。
幸せになれる。幸せに値する存在になれる。
そう、本気で、信じていた。
二十五人目のシュトローマンは、生涯忘れないだろう。
自分を救い、支えてくれた多くの人々の情愛を、善を、たった一語で否定したその者の声音を。
世界たりえぬ暗黒にうごめく地虫の分際で、幸せに向かうシュトロの足に喰らいついてきた、不届き者の目つきを。
市場で見つけた、遅咲きのユリの花を施療院に届ける途中――道の先から、だしぬけに姿を現した――古い、権力の色を。
「ずっと追っていた」
真っ白なフードと、マント。
シュトロがまとうはずだった、ヴァイス(白)の装束。
「血にまみれた貴様に、その花を持つ資格はない。世の全ての清浄なものは――貴様以外の人間のためにある」
引き抜かれる剣。向けられる切っ先。シュトロは呼吸すら止めて、目の前の過去の残滓を見つめる。
「せめて祈れ。シュトローマン。己の死が、屠られた者達の慰めとならんことを」
マントが、白刃がひるがえる。風を切り、シュトロの首めがけて、剣光が走る。
……港町の細路地に、人間の骨肉が破壊される、にぶい音が響いた。
シュトロは、多くの人々の情愛を享受してきた己の心の中に、未だ冷たい憎悪と殺意の種火が残っていたことを恥じながら。敵の顔面に叩きつけたこぶしを、それに握りつぶされたユリの花弁を、悪鬼の貌で睨みつけた。
「……死にかけの羊みてえな国民にばかり吼えかかっていた、政府の飼い犬が……一度柵の外に出ちまったケダモノを、どうして仕留められると思ったんだ……?」
剥かれたシュトロの歯が、ばきりと音を立てる。
こぶしが引かれ、再び風を切り、敵のあごを砕いた。
ユリの真っ白な花弁が、一枚残らず舞い散り……飛散する血飛沫の朱を、塗りつぶした。




