四十三話 『善の垣根』
馬車はやがて雨雲と稲妻を背後に置き去りにして、『ブゼニエ』という名の港町に入った。正確にはモーゼ侯国領、宣誓教会自治区、ブゼニエというのだと、件の老人が教えてくれた。
町の名前にも、国の名前にも聞き覚えがない。行き倒れとして乗合馬車に拾われて、そのまま眠りながらに異国に入境できてしまったことに、シュトロは我がことながら呆れるしかなかった。
「俺達は流れの労働者なんだ。町や国を渡り歩いちゃ、その土地で行われているでかい公益事業……道や聖堂の建設とか、災害の後始末なんかの仕事に参加して金をかせいでる。つまりは人手が必要な時にだけやって来て、ことが終われば去って行く、便利な雇われ外国人ってわけだ。だから国境でむげにされることも少ねえわけよ。労働者組合の出かせぎ許可証も持ってるしな」
「俺は持ってねえ」
「おめえは俺の甥ってことにしといた。下半身の病気で寝込んでるって言ったらそれ以上詮索されなかったよ」
大声で笑う老人に、シュトロは馬車から降り立ちながら細い目を向けた。雨上がりの石畳にはこけが生えていて、その上を大きな蟹が横ばいに通り過ぎてゆく。
海。三人目のレヒトに知識としてのみ教えられていたそれが、シュトロの目の前にあった。白い壁と赤い屋根の建物がひしめく町の向こうに、迫るような青色が広がっている。
巨大な水たまりだと分かってはいても、シュトロにはそれが、まるで地に落ちた青空のように見えた。海水の色はまさに空の色で、その上をなでる白波もまた、雲と同じ色だった。
「じゃあな。そのまま、まっすぐに進めばこの町の施療院に着く。尼さん達の言うこと聞いて、きっちり病気を治すんだぜ」
「あっ! おい!」
声を上げるシュトロに、老人は他の労働者達と共に道を歩き出しながら、ぼんっ、と汚い布の塊を投げてよこした。
受けてみればそれはシュトロが着ていた国民服にカカシの顔と血抜きの剣をくるんだもので、雨にだいぶ流されてはいたが、明らかに血痕と分かる染みが全体に浮き上がっていた。
さっと顔色を変えるシュトロ。しかし老人は道を歩きながら、大きく手を振ってにこやかに言った。
「大丈夫! 壊血病ってのは血がどばどば出るもんなんだ! 病人の寝巻きが血みどろになるのぁ、珍しいことじゃねえよ! 気にすんな!」
「……!」
「それにそんだけ血が流れりゃ、病の気もいっしょに体の外に抜け出てるはずだ! 治るための出費と思や、服の一着くれえ安いもんさ!」
国民服を染めた血を、シュトロ一人が流したものだと勘違いした老人は、そのままシュトロを大声で激励しながら遠ざかってゆく。
シュトロは老人がなぜ自分を拾ってくれたのか、なぜ自分の身分証を使ってまで入境を手伝ってくれたのかを訊きたかった。なぜ赤の他人に、見ず知らずの男に救いの手を差し伸べてくれたのか。剣を携え、血みどろの服を着た者を馬車に入れて、危険な目に遭うとは思わなかったのか。
だが、シュトロの問いはいつまでも喉元にとどまって、とうとう口から外には出てこなかった。老人にへたなことを言って、万が一自分が殺人者であることに気づかれたらと思うと、どうしても声を出すことができなかった。
シュトロは、ただ深く、可能な限り深く頭を下げ、老人の声が聞こえなくなるまで礼をし続けた。老人が脱がせてくれたのだろう国民服を手に、老人が着せてくれたのだろう毛布にあごをつけながら、ひたすらに感謝だけを示し続けた。
その後、老人に言われたとおりに施療院の戸を叩いたシュトロは、無事尼僧達に入院を許された。
すでに院内には数十人の行列ができていて、きちんと順番を待つつもりだったのだが、受付の尼僧がシュトロを一目見るや怒鳴るように先頭に呼び、一刻を争う事態と主訴も聞かずに治療室にほうり込んだのだ。
尼僧達は壊血病の症状よりも、シュトロの体についた無数の刃物傷や打撲傷、そして彼女らに言わせれば異常極まりない脂肪の欠如に驚き、見たこともない薬品や医療器具でシュトロの体を治療した。
聖職者達が自分のために忙しく走り回り、額に汗を浮かべながら医療行為に心血をそそぐ様子に、シュトロはあっけに取られると同時に、ひどく不安になった。
自分は祖国においては、いくらでも替えのきく『生きた歯車』だったのだ。死ねば同じ名前の赤ん坊と取り替えられるだけの、修復する価値もない消耗品だった。
そんな自分を、社会的地位のある尼僧が何人も寄り合って治療してくれている。彼女らに支払う代金もないのに、分不相応な待遇を受けている気がしてならなかった。
だが、治療台に横たわったシュトロがそういった不安を口にすると、尼僧達はなぜか烈火のように怒り、逆にシュトロが逃げ出さないように彼の体を台に縛りつけた。
人間は物ではない。人間存在に替えなどきかないと、是が非でもシュトロを生かそうとした。
その時のシュトロには、彼女達の気持ちは、一片たりとも理解できなかった。
そうしてシュトロは、異国の施療院で傷を癒され、安全な病室で命をつなぎ止められた。寒風の入り込まない、真っ白な石壁に囲まれた病室には暖炉が燃えていて、清潔な寝台の上には見たこともない寝具がそろっていた。
食事は日に三度も運ばれ、その全てにあざやかな色がついていた。赤や緑や、白やだいだい色の物を口に入れたのは生まれて初めてだった。しかも信じがたいことに、その全てに素晴らしい味と匂いがついていて、歯ごたえがあった。
食事と睡眠が、快感を伴うものだということを、シュトロは初めて知った。それを尼僧達に打ち明けると、彼女らはなぜか、ひどくつらそうな顔をした。
ある日とうとう一人の尼僧が、「なんてかわいそうな人」と、胸に十字を切りながらに言った。
「あなたは生きながらに地獄に落とされていたのよ。あなたの国は、人が住んで良い場所ではないわ。本当に、よく逃げてきたわね」
「実感がわかないんです。連邦が冷淡な国だってのは分かってましたが……他の国はどこもこんなふうに豊かで、病人に優しいんですか? 金も払わないのに、こんなに良い物を食わせてもらえるなんて、信じられません」
「あなたに出してるのはくず野菜を塩水で煮ただけの簡単なものよ。それと壊血病の治療に、イチゴとハーブを食べさせてるけど……」
「それだ。あの赤いイチゴってやつは、気絶するぐらいうまいです。相当に値が張るんじゃないですか?」
「あいにく、道ばたに生えている野生の実よ。水っぽいから子供も食べないわね。本当に値が張るイチゴは畑で育てられていて、もっと大きくて甘いのよ」
尼僧はシュトロの目を覗き込みながら、ふっとため息をついた。「善と平等の国だと聞いていたのに」と、その眉が失望にゆがむ。
「人をこんなふうに扱う国には、先はないわね。苦痛ばかり与えて、従順さばかり求めて……きっと善と平等を、人を縛る道具にしたんだわ。本当はそんな使い方しちゃいけないのに」
「……善と平等の、使い方……?」
首をひねるシュトロに、尼僧は居住まいを正してから、うなずいた。
「善は振りかざしたり、他人に無理やり受け入れさせるものじゃないの。なぜなら善は武器じゃないから。自分自身で探して、見つけて、心の中で磨き上げるものなのよ。平等だってそう。万人が納得できる平等なんて、そうやすやすとは実現できない。自分が思う平等を他人に強制するなら、それはもうただの暴力よ」
「……」
「この国はきっとあなたの国より豊かなわけでも、優しい国民性を持ってるわけでもない。ただ、善や平等といった価値観に垣根がないの。人々が自分の信じる『善』を、自分が正しいと思うやり方で、できる限り実行している。それだけよ。その結果より多くの人が幸せになれる『平等』が生まれればいいなって、願ってるだけ。
……でも、世界の多くの国の人は、そうやって善と平等を飼いならしてるんじゃないかしら。あなたを助けてくれた乗合馬車のおじいさんも、たぶん自分の善を素直に実行しただけだと思うわ」
「剣を持った血みどろの男を馬車に乗せることが、ですか?」
「傷ついた少年を死から救うことが、よ」
少年、という言葉に眉根を寄せるシュトロに、尼僧は腕を組みながら笑った。
「あなた、まだ未成年でしょ? この国では十八歳以上が成年なんだけど……とにかくそんな子供が、ガリガリに痩せて、しかも血まみれで雨の中気絶してたら誰だって心配になるわよ。剣だって家畜用の屠殺剣だったしね」
「でも、俺が危険な人間だったら……」
「そうね。もしあなたが馬車の中で暴れて、乗客を刺してたりしたら大事だったわね。例のおじいさんは役人に突き出されて、牢屋に入れられてたかも。悪くすれば縛り首ね」
顔を引きつらせるシュトロに、尼僧は笑みを消しながら「でも」と声を落とす。
「おじいさんがあなたを見捨てていたら、あなたは確実に雨の中で死んでいたわ。彼の善を浅はかと笑うことは、私にはできないわね」
「……そりゃ……俺だってあのじいさんには感謝してますが……ただ……」
「打算のない善意に触れたことがないから、おじいさんや私達のことを、心から信用できないんでしょう?」
尼僧はシュトロが口を開く前に「恥じることはないわ」と、早口で言った。
「少しずつ、世界を知ればいい。あなたの異常な祖国と違って、ここには善も悪も、あるがままに存在しているの。人間はあなたが思っているより、ずっと素晴らしい生き物なのよ。あなたの体が回復するころには、それに気づいて欲しいわ」
シュトロは部屋を出て行く尼僧の背中を、黙って見送った。扉が閉まるとわずかな風に暖炉の火が揺れ、ぱちぱちと火花を空中に散らせる。
シュトロは火花の一瞬の輝きの中に、なんとなく三人目のレヒトの顔を思い浮かべながら、小さく舌打ちをして、枕に顔を埋めた。