四十一話 『暗黒の仮面』
何のために生まれてきた。
一切の祝福もなく、一切の愛も情も感じられぬ冷たい世界に産み落とされたのは何の因果だ。誰の呪いだ。
何も認められず、何も許されず、非人道の国を支える歯車にされることが己の運命だったのか。
シュトロは八十人目のフライシュの剣を手に、闇の中を走る。昼間萎えていた足腰は長い弛緩を経て再び動きを取り戻していたが、縄を切るのに手間取ったせいで、屠殺小屋を出るところを長老達に見られてしまった。
彼らは朝陽を待たずシュトロを殺すことに決めたらしい。農具や棒切れを手にしていた村人達は、逃げるシュトロを声もなく追って来た。
夜闇の中を、松明ひとつ持たぬ人の群が、影の塊となって駆け抜ける。罵声も悲鳴も上げず、ただ荒い息づかいだけを夜気に放ち、追い追われる。
シュトロはたまに差しては消える月光に周囲の地形を確かめながら、やがて道ばたの林に飛び込み、さらに濃い闇の中へと踏み入った。木の幹と枝を手探りで避け、折りながら進むと、背後からも同じように枝を折る音がついてくる。
乾いた音は、まるでガリガリに痩せた餓死者の骨折音のようだ。追いつかれまいと闇を掻く手足を急かした瞬間、靴底が地面を踏み抜いた。
声を上げる間もなく、体が土をくぐる。陥没した大地に落ち込んだシュトロは、そのままずるずると地の底へと引きずりこまれる。
何が起こったのか分からなかった。地下に何かの都合で空間ができていて、その天井をシュトロが踏み抜いてしまったのか。せまく、息苦しい穴の中を、シュトロの体がすべり落ちていく。
ざりざりと全身を土にこすられながら、それでも血抜きの剣を必死に握りしめていると、しだいに穴の傾斜が緩やかになり――足先に光が当たったと思うや、そのまま体ごと、穴の外に放り出された。
硬い大地と、落ち葉の感触。背中をしたたかに打ちつけたシュトロは、あお向けに月を抱き、咳をする。
――静かだった。枝を折る音も、他人の息づかいも聞こえない。
執拗にからみついていた雲から逃れた真っ白な満月が、シュトロの目の前にある。静謐な光を放つ、真円の星……。
……その下端に、地上に立つ、人影の頭がかかっていた。
シュトロはゆっくりと目玉を転がし、月から人影へと視線を下ろす。静かな世界にたたずむ人影は、天上からの光を浴びながら地を見下ろし、うつむいていた。
その目にシュトロは映っていない。いや、この世の何者をも映してはいなかった。
大きなボタンの目は、闇をたたえている。輝かしい月光を拒むかのように、そっぽを向き、陰に沈んでいる。
カカシだ。シュトロが毎日手入れをしていた、害獣除けの人形。それがシュトロのすぐそばに立っている。
……ここは、レヒトのいた場所だ。
シュトロが通って来た穴は、レヒトが住んでいたアナグマの古巣だったのだ。
それに気づいた瞬間、シュトロは胸にこみ上げるものに耐え切れず、泣き出した。声を出してはいけない。追っ手に位置を知られてしまう。分かってはいても、もはや彼の意志では泣き声を抑えられなかった。
レヒト。あなたは今、どこにいる。この狂った国のどこかで、性懲りもなく知性の芽を探しさまよっているのか。
自分と同じような、未だもの知らず、政府の価値観に染まりきっていない子供に希望を託し、講義をしているのか。
それとも、もはや諦めてしまったのか。人と国に絶望し、空や川だけを相手に暮らし、命尽きる日を待っているのか。
「どこで、何をしていようとも――どうか、俺を忘れねえでくれ――俺のことを、覚えていてくれ――」
シュトロはうめきながら地を這い、レヒトがいつも座っていた場所に顔をうずめた。
あの日、たとえレヒトと別れずとも、彼の言うことに最後まで従い続けていたとしても、シュトロは自由を手にできず、今と同じように地べたに這いつくばっていただろう。
レヒトの計画は最初から破綻していたのだ。シュトロがヴァイスになり、外国に亡命することなど初めから不可能だったのだ。
だが、それでもシュトロはレヒトを失うべきではなかった。レヒトが何を与えてくれずとも、彼と一緒にいるべきだったのだ。
彼が隣にいれば、ここまでさみしく、辛い夜を迎えることもなかった。
人間存在に対し、ここまで失望し、絶望することもなかった。
レヒトは、暗闇の時代にたった一つ残された灯火のような人だった。非人道の世にあって人道を説く、人間の善性の、最後の光だった。
その光を、灯火を、シュトロはみずから遠ざけてしまった。清らかな月光を浴びながら顔をうつむかせ、地に映った自分の影を見つめているカカシの姿は、今のシュトロの姿そのものだ。
シュトロにはもう、何もない。仰ぐべき光も、抱くべき希望も、何一つ残っていない。
暗闇だ。この国にいる限り、シュトロの目にはもう暗闇しか映らない。
暗闇しか――――。
「二十五人目のシュトローマン」
唐突に、ささやくような声が耳を震わせた。
シュトロは地に顔をうずめたまま、ゆっくりと両の目を見開く。静寂に包まれていた世界に、小さな息づかいが生まれていた。背中に感じる視線に、血抜きの剣をぎゅっと握りしめる。
「二十五人目のシュトローマン」
繰り返される呼びかけに、シュトロは顔を上げ、地にひざをついたまま背後を振り返った。
月光に照らされたカカシの横に、小さな女の子が立っていた。すりきれた国民服をひっかけた女の子は――シュトロの、十歳違いの妹だった。
月光にきらめく、水盤のような瞳。
一切の邪な色を含まぬその輝きに、なぜかシュトロの脳裏に、かつてのレヒトの言葉が甦った。
『大衆という群には絶望したが……寒村で洟垂らしてるガキの個には、希望を見たかったのかもしれねえ』
シュトロは立ち上がり、妹に向き直る。母親によく似た丸い目が、シュトロを見つめてくる。
群から離れた、小さな個人。武器持つ村人達から分離した、幼い兄弟……。
「……レヒト……あんたが希望を見たのは……この目だったのか……?」
つぶやいたシュトロの前で、妹が、カカシの背に隠れていた右手を上げた。
小さな指には、彼女の仕事道具の、縫い針が握られていた。
「――――見つけた! 不労者だ! 二十五人目のシュトローマンがいたぞッ!!」
叫ぶ妹の目元に無数のしわが寄り、瞳が清廉な輝きを宿したまま上転した。
血管の浮き出た白目が、シュトロに迫って来る。顔に突き出される縫い針を、シュトロはとっさに手で払った。
手の平に針が沈み、血の玉が浮く。妹は地を転がりながら叫び続け、地を見つめるカカシをシュトロの方へと押し倒した。
ボタンの目が、シュトロの目と重なる。こもった闇が、シュトロに流れ込んでくる。
シュトロは冷えきったカカシの腕に抱かれながら、獣のような妹の声と、それに呼び寄せられてくる村人達の足音を聞く。
シュトロの口から、勝手に、恐ろしい声がもれた。引きつるような、乾いた笑い声が。
「……そうだよな……そりゃあ、そうだよなあ……」
月下に、村人達の影が躍る。一切の迷いなく襲いかかって来る彼らに向かって、シュトロはカカシを投げ飛ばし、悪鬼の貌で剣を振るった。
……それからのことは、シュトロは誓って、よく覚えてはいない。
胸を焼くどす黒い感情の炎と、体に刻まれた数え切れぬ痛みの中に、シュトロは意識をなかば以上取り落としていた。
視界は真っ赤な血の色に沈み、耳には恐ろしい音と声が渦巻いていた。手は勝手に何かを切り刻み、足もまたシュトロのあずかり知らぬ場所へと駆けていた。
自分が何をしているのか、もはやシュトロ自身にも分からなかった。ただ自分の魂を苛む耐え難い悲しみと、憎悪を振り払うためには、けっして立ち止まってはならぬのだと思った。
シュトロは赤い世界を駆け続け、見えぬ肉を刻み続け、苦痛を声にして叫び続けた。耳に渦巻く不快な音と声をかき消すために、全力でそれと戦った。
そうして、やがてシュトロの手足が力を失い、地に落ちた時――耳から、あらゆる不快な音が遠のいた時――。
視界を覆っていた赤い色が晴れ――現実が、戻って来た。
シュトロは、村の広場に戻って来ていた。世界は暗い青色で、東の空には明るみが見え始めていた。
周囲で、豚の鳴き声がする。家畜小屋から解き放たれた豚が、地面に散乱した何かをむさぼっている。
シュトロは地面にひざ立ちになったまま、そっと、背後を振り返った。
そこには腸を抜かれ、ズダ袋や桶をかぶせられた、無数のシュトローマンが林立していた。彼ら自身がシュトロに向けた農具や、棒切れを支柱に、荒縄でくくりつけられていた。
豚がはらわたを咀嚼する。汚らしい音を立てて喰らいつく。
シュトロの血まみれの手には、血抜きの剣の他に、レヒトの巣穴のそばにいたカカシの顔が握られている。大きなボタンの目のついた、ズダ袋――。
シュトロは、小さく顔をゆがめてから、それをかぶった。闇をたたえた仮面を、月光に背く人ならざるものの顔をかぶった。
やがて朝陽が、独りのシュトローマンを照らし出した。




