四十話 『柔らかい肉』
一切の光明が尽き、夜が来た。
闇が、死を予感させる冷気をまとい、シュトロにのしかかってくる。長老一家によって村の屠殺小屋に監禁されたシュトロは、血と臓物の散乱する床の上に立ち、両手を後ろに、柱に縛り付けられていた。
子豚をくびり殺すための荒縄が、手首を強く締め付けてくる。
小屋のどこかで、未だ死に切れない哀れな豚が声を上げた。誰かのずさんな仕事のせいで生きながら解体されてしまったのか、それとも解体されてから息を吹き返してしまったのか。
食肉加工の仕事は、さばいた肉の重さでもって一日にこなすべき作業量が規定されている。村人達は自分の計量バケツが肉でいっぱいになった時点で仕事を切り上げ、解体途中の豚を放置して帰ってしまったのだろう。
シュトロは豚の声を聞きながら、闇を吸い、低く、歌うように言った。
「家畜は速やかに、躊躇せずに殺すこと。恐怖を感じた生き物の肉は硬くなる。柔らかい肉を得るためには、可能な限り苦痛の少ない殺し方を選び――刃も、死の瞬間まで見せねえのが好ましい」
闇に満たされた屠殺小屋に、木のきしむ音が響いた。
前方の扉が開き、夜風が入り込んでくるのを感じながら、シュトロはさらに言葉を続ける。
「豚を物のように解体するやつには、絶対に柔らかい肉は生み出せねえ。バケツに山盛りになるのは全部硬い肉だ。恐怖と、怒りと、憎悪にまみれた食肉だ。豚を生き物として扱わないから、憎悪の詰まったバケツを運ぶはめになる」
「肉が硬かろうと、柔らかかろうと、俺達に何の関係があるってんだい」
扉を開けた村人が、闇の中で声を上げた。床を長靴で叩きながらやって来るその村人の声は、昼間シュトロと共にこの小屋で働いていた、三人の男達の内の一人のものだった。
「八十人目のフライシュ」――村人の名を舌に乗せながら、シュトロは首をごきりと鳴らす。
「ああ、関係ねえかもな、おめぇには。どうせ豚肉は俺達の口には入らねえ……どこぞの上級国民様が召し上がられる肉の硬さなんざ、どうでもいいことなのかもしれねえな」
「聞いたよ。お前、あのレヒトの手先だったんだってな」
闇の中に、青白い光が生まれた。雲間から月が顔を出したのだろう、開けっ放しになった扉の向こうから、あわい光が影のように伸びてきて、村人と、シュトロの姿を小屋の中に浮かび上がらせた。
村人……フライシュが顔を寄せてきて、シュトロの目を覗き込む。シュトロは再び首を傾け、首の骨を鳴らしながら訊いた。
「他の連中はどうしてる? 俺を明日の朝、労働監視官に引き渡すか、それとも今夜中に殺すか、相談中ってとこか?」
「まあな。お前が収容所に入った後、レヒトとの関係を喋りでもしたらまずいことになるからな。長老はレヒトの手先を国家施設に送り込んだことになっちまうし、かと言って労働監視官に正直にすべてを報告したとしても……」
「村からレヒトの賛同者を出したって事実は変わらない、だろ。なあ、俺の家族も相談に参加してんのか」
シュトロは息をつきながら、目の前のフライシュを見る。黙っている相手に、「無情だよなあ」と、口角を吊り上げた。
「俺が血反吐を吐いて村中転げまわってる時によ、俺の家族は、家に閉じこもって、みんなして扉を押さえつけてやがったんだぜ。ふつうするか? そんな真似。血のつながった家族だってのによ」
「お前がやばい病気にかかったって、俺達が触れ回っておいたんだよ。たくさん血を吐いて、死にそうだって。……うつるかも知れないってな。だからお前を家に入れまいとしたんだろう。恨むのは筋違いだぜ。誰だって病気は怖いさ」
「この病気はうつらねえ。長老にそう聞いたからここに来たんだろう。何しに来た? 恩人を見捨てた償いでもしてくれんのか?」
フライシュが眉根を寄せ、「恩人?」ととぼけた面で返した。シュトロは「てめえがそう言った」と歯を剥き、未だ血の色の混じった唾を床に吐き捨てた。
「自分が情けねえよ。俺は、レヒトに初めから全てを教えられていたのに……この国のどうしようもなさを、この国の人間の救えなさを、さんざ聞かされていたってのに。なのに、ずっとありもしない人間の良心だとか、きれいな部分だとか……絆ってやつを、信じたがってたんだ。せめて自分の家族や隣人くらいは、救えるもんだと思ってた。救う余地があると思ってたんだ」
「何言ってんだ? お前が誰を救うだって? 犯罪者の手先のくせに」
「条文化した法律に触れることだけが罪じゃない。無学なてめえには分からねえだろうがよ」
フライシュが頬を引きつらせ、シュトロの足に靴底を乗せた。みしっときしむ床。しかしシュトロは表情を変えず、言葉を続ける。
「八十人目のフライシュ。お前はなぜここに来た。なぜ俺に会いに来た。興味本位か? 俺を笑いに来たのか? だったらなぜさっさとやらない。俺をあざ笑って、口汚く罵れば良い。三人目のレヒトに、国家の敵に感化された馬鹿な男に唾の一つでも吐きかけてやりゃあいいだろうが」
「うるさい……! こ……この……!」
「お前らがしていることは正しい。この国の法と価値観に則るならな。だが、より致命的なものに外れている」
シュトロが、フライシュの額に己が額を打ちつけた。にぶい音が響き、フライシュが体勢を崩す。シュトロはまっすぐに立ったまま、目の前の男に低く宣告した。
「人道だ。人の道に外れてるんだ。俺を助けねえことがじゃねえ。俺に向けた感謝を、情を、たかが政府に植えつけられた価値観の下に敷き、なかったことにしてることがお前自身の魂に反してるんだよ。誇れることじゃねえと、心の底では気づいてるんだ。だからお前はここに来た。自分の正しさを確かめに来たんだ」
「何をわけの分からないことを……!」
「友達より政府を取った。人間としての情より、国民としての義務と規範を取った。その判断が正しかったと、お前は心から確信できねえのさ。……この小屋にいた他の二人は、二人ともいい年をした大人だった。政府に従い慣れているし、仲間を見捨て慣れている。だがお前だけは俺と同年代のガキだった。もだえ苦しむ仲間を目の前で見捨てるのは、初めての経験だった」
「おっ……!」
「仲間を失ってまで尽くしても、政府はお前に、何も返しちゃくれねえ。何も報いちゃくれねえ。俺を見捨ててから、それに気づいたんだ」
フライシュの目が泳ぐより早く、シュトロの口が「情けねえ!」と吐き捨てるように言った。瀕死の豚のうめき声が、シュトロの言葉に重なる。
「良心の呵責なんてもんじゃねえ! 良心の残骸だ! 俺を裏切っておいて、助ける気もないくせにのこのこ会いに来やがって! 一体どうしろってんだ!? 俺にどこぞの聖人みてえに縛られたまま『お前の判断は間違っちゃいない』『お前を憎んじゃいない』とでも言えってのか!? 冗談じゃねえ! 憎んでるよ! この世の何よりもお前らを憎みまくってるよ!!」
「ぐっ……!」
「フライシュ! 全村人の中でよくも一人だけ良心に迷い、俺にすがりついてきやがったな! お前にタダでくれてやるもんなんざもう何一つねえッ! 許しが欲しけりゃ……お前も差し出せ! この縄をほどいて、俺に報いる意志を差し出してみせろ!!」
シュトロの台詞が終わる前にフライシュが己の腰に手をやり、屠殺者だけが持つことを許された、血抜き用の剣を抜いた。
縄を切るのかと思いきや――フライシュはわずかにねじれた剣先を、シュトロの顔に向ける。
まるで激高した猿のような顔で歯を剥いたフライシュが、刃先を細かに震わせながらうめいた。
「偉そうに……言いやがって……! よく聞けよ、カカシ野郎……この国は、善と平等の国なんだ……国民は常に善良で、平等でなくちゃいけないんだ……! 労働に対して、善良で……政府に対して、善良……! 善良ってのは、黙って、疑いなく働き続けることなんだ……それを全国民が平等に行うんだ……! その『環』から外れたやつに、国民の資格はない……そんなやつは、友達じゃない……!」
「だったら、とっとと殺れよ」
豚野郎。
静かに震えたシュトロの喉めがけて、フライシュが剣先を突き込んでくる。奇声を上げるかつての友の顔面に、シュトロは足元に転がっていた豚の腸を蹴り上げ、叩きつけた。のけぞり、足をもつれさせたフライシュの剣が、シュトロの顔のすぐ横に突き刺さる。
地にひざをつき、うめきながら腸を取ろうとするフライシュの首に、シュトロが太い腿をがっちりとかけ、締め上げた。股ぐらで上がるくぐもった悲鳴に、シュトロは天井をあおぎながら歯を食いしばる。
「抵抗するな……八十人目のフライシュ……! 柔らかい肉にしてやる……!!」
腿に食い込む爪を感じながら、シュトロは息を詰め、渾身の力で半身をひねった。
ぼきりと音がして、悲鳴が止む。足を滑るフライシュの爪が、やがて地に落ちると、シュトロは締め上げていた細い首を解放した。
死体が転がる音を聞きながら、シュトロはゆっくりと目を閉じる。その顔を浮かび上がらせていた月明かりが、雲に阻まれたのか――暗幕を引かれたかのように、消滅した。




