三十九話 『残日』
「これは治らんぞ。血の病にかかっておる。もって半年といったところだ」
夕暮れ。やっとの思いでたどり着いた長老の家で、シュトロはいとも簡単に死を宣告された。
床が汚れるからと家に上げてもらえず、硬い外壁にもたれて喘いでいた彼に、長老は今まで見たこともないような冷たい目を向ける。シュトロはようやく止まり始めた吐血に息をつきながら、長老をじろりと睨みつけた。
「医者でもないくせに、いい加減なことを言うんじゃねえよ」
「経験だ。今までお前と同じ症状の村人を何人か看てきたが、みんなそのぐらいで死んだ。助かる方法はない……。これからお前はどんどん痩せて、肌が気色の悪い黄土色に変わり、爪や歯が抜けて見るも無惨な姿に成り果てて死ぬのだ」
長老がひざを折り、シュトロの顔を覗き込む。まるで下らぬ小悪党に慈悲をかける聖人のような面をする老人に、シュトロは反吐を吐いた。
己の足を汚す吐しゃ物を見つめながら、シュトロは濁った声で訊く。
「俺をどうするつもりだ……村から放り出すのか」
「その体では働くことはできまい。労働義務を果たさぬ者を村に置くわけにはいかないが、しかし放逐してもこの村が働かぬ者、『不労者』を出したという事実は変わらない。三人目のレヒトのような犯罪者を国土に放った咎を、労働監視官は必ず追求してくるだろう。そうなれば他の村人にも迷惑がかかる」
「体裁を整えたいってか。だったら方法はひとつしかねえな。俺が『不労者』になる前に……つまり明日の労働開始時刻がくる前に俺を殺して、労働監視官に死亡届けを出すことだ」
鼻で笑いながらに言ったシュトロに、長老は抑揚のない声で「そういう手もある」と返した。
がくぜんとするシュトロの肩に枯れ木のような手を置きながら、長老は「だが」と、厳しい目つきで続ける。
「幸いなことに、政府は事故や病が原因で働けなくなった国民に対して救済措置を用意してくれている。傷病が発覚した翌日中に申請手続きをすることで、収容所への入所が可能になるのだ。この方法ならお前を殺さず、また不労者にすることもなく事態を落着させることができる。寒風の入らない建物の中で、余生を安らかに過ごすがいい」
「――ふざけるな! 誰が収容所になぞ入るもんか!!」
長老の胸を突き飛ばし、シュトロは怖気に震えながら立ち上がった。頭がふらつき、腰が砕けそうになったが、臓腑が焼け溶けるかのような怒りが足を固め、遠のきかけた意識をつなぎ止める。
「何が救済措置だ、何が安らかな余生だ! 寄生蝿の卵を埋め込んで死ぬまで搾取しようって腹じゃねえか! 冗談じゃねえ! 虫けらのエサにされるくらいなら俺は働くぞ! 血反吐を吐きながらでも働いてやる!!」
「無理だ。お前はあと半年で死ぬ。その前に足腰が萎えて、完全に立てなくなるだろう」
「てめえに何が分かるんだ! 俺ぁ今まで人の倍働いてきた! 人の倍丈夫な体なんだ! ちょっと病気になったからって……!」
「ならばこう言おう。お前が吐く血は、狼や熊を誘い寄せる。せっかくのカカシを血で汚して回られたら、村の防衛線が崩壊する。……村を危険にさらすようなまねをするなら、私はお前を犯罪者として告発する。お前は結局収容所行きになり、死ぬまで出られない」
長老の言葉に、シュトロは目を剥き、こぶしを握ってわなわなと震わせた。長老はしばらく針のような視線をシュトロにそそいだ後、深いため息とともに「もうよいのだ」と吐き捨てるように言った。
「お前はこれまで充分に国民としての義務を果たしてきた。その若さで潰れたのは残念ではあるが……しかしそれがお前の、運命だったのだろう」
「……運命……?」
「お前の親や、兄弟達もきっと誇りに思うだろう。立派なルイン連邦民として、最期まで国家に忠を尽くすのだ。村はお前を忘れない。お前の名を継ぐ赤ん坊が産まれるまでは……」
言いながら肩を叩こうとする長老の手を、シュトロは背で壁をこすりながら避けた。
枯れ木のような……骨と皮ばかりの、死神のような手が、シュトロを追って来る。
シュトロは絶叫し、地を蹴って逃げ出した。茜色に染まった村を走り、ふらつき転びながら、夕陽に浮かぶ人々の影に助けを求めた。
だが人影はシュトロの方を見もせず、自分の帰路を歩き続け、あるいは背を向けて物陰へと溶けて行った。異様な静寂に包まれた村に、シュトロの声だけが響き渡る。
恐怖と、怒りが、血反吐とともに喉からほとばしった。
「ふざけんな……! ふざけんな、てめえら……! 今までさんざん良い顔してきたくせに……さんざん感謝して、仲間だ恩人だって言ってたくせに……!」
俺のことをイイヤツだって、言ってたくせに。
家々の扉を叩き、藁束に蹴つまずき、肥やし樽に突っ込み中身をぶちまけながら、シュトロは村人達の名を叫び続けた。
返事はなく、全ての扉は閉ざされ開かない。やがてシュトロの手が自宅の扉にかかり、その向こうで取っ手を押さえつけている家族の息づかいを感じ取ると、喉からほとばしるものの中に憎悪が混じった。
「俺を助けようってやつはいねえのかあぁーッ!!」
破けんばかりに震える喉を、血の泡が垂れ落ちる。次の瞬間握っていた取っ手が音を立てて砕け、シュトロの体があお向けに地面に投げ出された。
肺が潰れるような咳を繰り返すシュトロの頭に、やがて、長老の影が落ちる。
無言で自分を見下ろす老いぼれに、シュトロは憎悪のあまり別人のようにゆがんだ形相を向けた。
その唇が、思い出したように「お前だ」と動く。
「お前のせいだ、長老……俺がこんな目に遭ってるのも……元はと言やあ、お前がいつまでもチンタラしてやがったからじゃねえか……さっさと推薦状を書かなかったからじゃねえか……!」
「……何?」
「てめえ! なんで俺をもっと早くヴァイスに推薦しなかったんだ! 二年間も働き者だって誉め続けときながらなんで放置した!? ヴァイスになってりゃ……もっと良いもん食って、良い服着てりゃ……病気にならなかったかもしれねえのに!!」
長老の顔に、初めて驚がくの色が浮かんだ。「なぜお前がヴァイスのことを知っている!?」とシュトロの胸ぐらをつかみ、しわだらけの頬を引きつらせる。
「村民には秘密の制度だぞ! なぜお前ごときが……! まさかヴァイスに取り立てられるのが目的で他人の仕事を手伝っていたのか!」
「だったら何だクソジジイ! てめえら村長だってヴァイスを推薦することで休みをもらえてんだろうが! 他人の働きでおいしい目を見てるくせに偉ぶってんじゃねえよ!!」
長老が顔をゆがめ、「馬鹿者が!」とシュトロの体を地に叩きつけた。血の泡が長老の顔に付着し、その表情を赤く彩る。
「レヒトだな! 三人目のレヒトにヴァイスの登用制度のことを吹き込まれたんだな! 国家転覆を画策するような男の口車に乗りおって……! あの男が国の上層で働いていたのは十年以上前の話だぞ! 国の制度が十年間も変わらぬままだと本気で思っているのか!?」
「何をッ……!」
「一般国民からのヴァイス採用は三年前に終了した! 私の休日がずっと十日越しなのはそのせいだ! 推薦業務はもう行っていないんだ!!」
脳に、金槌を振り下ろされたかのようなすさまじい衝撃が走った。
シュトロの視界の真ん中で、長老が獣のような声を上げてうなっている。その後方に、今まさに沈みゆく夕陽の最後の光が見えた。
……光が闇に呑まれる瞬間、長老の顔が、その輪郭が真っ赤に染まり、火葬される屍のように、燃え上がって見えた。
長老が何ごとかをわめき、怒鳴っている。
だがその声は、シュトロにはもう、地獄の犬の吼え声にしか聞こえなかった。




