三十二話 『白い追っ手』
夜闇に沈みゆく海から釣り船を引き上げた老人は、その日の釣果である真っ青な大魚を手に、砂浜を村に向かって歩き出した。
魚は頭から尾びれまでの長さが老人の腕ほどもあり、どっしりと腹に脂をたくわえている。
長い時間をかけて弱らせてやっと釣り上げた大物で、老いた腰には持ち上げるのは辛く、尻尾をつかんで頭を引きずり運んでいた。
これほどの大きさでなくとも、この種の魚は煮ても焼いても美味く、高い値で売れる。村長の家に持って行けば若い衆がすぐに取引用に加工して、代金をくれるはずだった。
だが老人は、魚を金に換えるつもりはなかった。頭と、背中の一番美味い部分を切り取って、あとは近所の家に配って回るつもりだ。
金は必要だが、今はそれ以上に人の好感がほしかった。
異国の処刑人を魔の島に案内したことが、すでに他の村人達に知られた気配があった。誰にも見られていないことを確認して船を出したはずだったが、老人の孫娘が友達にそんなふうなことを訊かれたのだそうだ。
お前のじいさんは、誰か危ない人間を止め海に案内したのか、と。
別に、誰を魔の島に導こうと文句を言われる筋合いはない。漁師達の多くが魔の島や、魔の島に行きたがる人間を縁起悪く思っているだけで、村の掟や国の法律が魔の島に言及しているわけではないからだ。
誰を案内しようが、上陸しようが、個人の勝手。子供はともかく、いい年をした大人が実際に非難めいたことを言いはしない。
だが、それでも迷信深い漁村の人々に一応は『お騒がせしました』と、言葉なくとも魚の肉ぐらいは配って回っておくのが処世術というものだ。
大魚を釣り上げた幸運のおすそ分けというていを取ることで、老人は下げたくもない頭を下げる必要がなくなり、近隣住民も笑顔のまま老人を赦すことができる。孫娘も嫌な思いをしなくて済むだろう。そう思えば魚の一匹ぐらい、安いものだった。
老い先短い身なればこそ、死ぬ時はせいぜい良い人だったと惜しまれたい。
あの処刑人を案内したのも謝礼目当てと言うよりは、人の思い出に少しでも残りたかったからやったことだった。
たとえ自分より先に逝く人間であろうとも、魔の島で息絶える寸前に、そういえばあんな老人もいたなと思い出してくれたならば。いつの日かあの世で再会した時、笑顔で手を差し出してもらえるかもしれない。おたがいよく生きたなと、ねぎらってくれるかもしれない。
自分が死んだ時、自分の死を祝福してくれる人がどれほどいるか。それこそが人間の価値であると老人は考える。
誰にも祝福されない死を迎えることほど、恐ろしいことはない。それは自分の人生が、誰の心にも響かなかったということだ。他人に害しか与えなかったということだ。そんな人生には、何の価値もない。
死は恐ろしくない。死をもって人生を否定されることこそ恐ろしかった。
老人は砂浜から桟橋に上がり、木の板を踏み鳴らしながら村の中に入った。村は木板が敷き詰められた土台の上に築かれていて、家々からは明かりと、パンを焼く匂いが漂ってくる。
急いでさばけば、夕食前に魚を配れる。老人は木板をこする大魚の頭を振り返りながら歩調を早めた。
老人の家は村の西側にあり、二年前に妻に先立たれてからは一人きりで住んでいるが、近所に息子夫婦と孫娘の住む家があるおかげでさびしさを感じたことはない。
毎朝孫の元気なあいさつを聞いてから漁に出かけられるのが、何よりもうれしかった。
ふだんは若い親子の水入らずの時間を尊重し無用な訪問は慎んでいるが、今日は大魚の背肉という口実がある。
自然と口の端に浮かぶ笑みを指でなでながら、老人は明かりのない我が家にたどり着き、扉を開けて中に入った。
「――素朴な、良い人生だな――」
低い声とともに頬に突きつけられた刃に、老人の顔から一瞬にして笑みが消えた。
家の中、壁ぎわに潜んでいた男が、老人に剣を突きつけたまま扉を閉める。大魚の頭が扉の金具にはじかれ、細かな砂のつぶを床に散らした。
男は老人のえりをつかむと、「行け」と家の奥へ彼を歩ませる。手から大魚の尾がすべり落ち、床をびたんと打ち付けた。
廊下を曲がり、寝室に行くと、さらに五人の男達が老人を待ち構えていた。薄闇の中たたずむ彼らは剣を突きつけている男同様、真っ白に染め上げたマントを羽織り、同じ生地でできたフードと、鼻から下を覆うマスクを身につけている。
異様な装束の中から目元だけを覗かせた男達は老人を足音もなく取り囲み、順に問いを向けてきた。
「魔の島の案内人というのは、お前か」
「案内人? いや、俺は頼まれたから……」
「頼まれて、誰を案内した」
「男を一人、魔の島に送っただろう」
「そいつの名を聞いたか」
「確かに上陸したのか」
「答えろ」
男達は、ぞっとするほど抑揚のない口調で言葉を吐く。格好だけではなく、しゃべり方すら六人全員そっくり同じだ。
老人は息がかかるほど近くに迫る男達の顔から目を伏せ、震える手を握りしめながら答えた。
「確かに男を島に案内したが、名は聞かなかった。途中で帰って良いと言われたから、上陸を見届けたわけでもない……」
「庇うとためにならんぞ」
「庇ってない。本当のことだ。仮面をつけていたから、顔も見なかった」
男達の目が、ぎらりと異様な光を放った。脂汗を流す老人の周囲で、冷淡な声が交わされる。
「間違いないな」
「ああ。仮面は決定的だ」
「やはり魔の島に向かっていたか」
「前の町で得た情報は正しかった」
「どうせ死ぬだろうが、しかし死体を持ち帰れとの命令だ」
「我らも赴かねばならぬ……かの島に……」
男達の誰かの手が、老人の肩をぐっとつかんだ。目を見開く老人の顔を、白いフードの闇が覗き込んでくる。
「お前は取り返しのつかない大罪を犯した。我が国の最悪の咎人に、手を貸したのだ。本来なら斬り捨てるところだが……しかし、異国の者を我らの法で裁くも、道理の通らぬこと。ゆえに贖罪の機会を与えよう」
「……」
「我らも魔の島へ案内しろ。お前が導いた仮面の男と、同じ道を歩ませるのだ」
「今すぐに、だ」
男達の包囲が、少しばかり遠ざかった。老人に剣を突きつけていた男が手元を返し、刃を腰の鞘に戻す。老人は震えながら、男達におそるおそる、問いを投げた。
「あの男は……何をやったんだ……?」
「人殺しだ」
「……そりゃあ、そうだろうが」
処刑人なのだから。そう続けようとした老人に、男達は目を大きく見開いて言葉をかぶせてきた。
「人殺しと知ってて案内を買って出たのか?」
「あ、ああ……あんたらの国の事情は、俺とは関係のないことだし……」
「……意外に冷酷なやつだ。女子供をふくむ三十人以上を惨殺した輩に、平気で手を貸すか」
「三十人……それは……多い方なのか……?」
「何を言うか!!」
男達が、初めて感情的な声で老人を怒鳴りつけた。
びくつく老人に、彼の真正面に立った男が手袋をはめた指をつきつける。
「罪のない同胞を三十人も殺して村を全滅させることが、たいしたことではないとでも言うつもりか! あの男は自分の親兄弟すら剣で刺し殺し臓腑を地べたに撒き、それを家畜に食わせたのだぞ!」
「えっ……?」
「やはり魔の島の近くに住む人間は、瘴気に精神を侵されているらしいな……まともな神経を持ち合わせておらん……!」
吐き捨てるように言った男が、白い装束をひるがえしながら、言った。
「教えてやろう、お前が案内した男の名は『二十五人目のシュトローマン』、我がルイン連邦史上、最悪の殺人鬼だ!」




