二十八話 『聖殿にて』
喪中の人気のない王宮の廊下を歩き、巨大な石の門をくぐり、ミテン王子は先王のなきがらの安置されている中庭の聖殿へと向かう。
国王が崩御された場合、そのなきがらは七夜を聖殿の中で過ごし、この世で吸った汚れた空気を聖域の『気』で清めるのがならわしだった。その間は何人たりともなきがらに近づくことは許されず、合掌や平伏も聖殿の扉ごしにしなければならない。国王のなきがらに俗世の息を吹きかけることは、その死後の安寧をおびやかすことだからだ。
だが、ミテン王子は、聖殿の瑠璃と珊瑚に彩られた扉にいとも簡単に手を伸ばした。殺気立つサビトガを、王子の取り巻き達が瞬時につかみ、けん制する。
静かに開かれる扉。聖殿に侵入するミテン王子。サビトガの背を、いつの間に抜いたのか、国軍長官が白銀の刃先で突いた。
――この場にいる全員を、今すぐに叩きのめすべきか。王室処刑人であるサビトガならば、素手で背後の敵の喉を割ることもできる。
王の魂を汚す不埒者ども。たとえ高官であろうと、骨の二つ三つは外されても文句は言えなかった。
「おお、処刑人。大変だ。一大事だぞ、これは」
こぶしを握りしめた瞬間、扉の向こうでミテン王子が声を上げた。視線をやるや、半開きだった扉が勢い良く開け放たれる。
……サビトガは、我が目を疑った。満面の笑みを浮かべるミテン王子の背後、広大な聖殿の床の上に、百を超える男達が座していたのだ。
背を押され、扉をくぐらされたサビトガは、ミテン王子のとなりでおびただしい数の視線を受ける。立ち入ってはならぬ国王の死後の寝所に集う男達は、名だたる武官、文官、宦官達だった。国の要職にある者の過半数が、ここに集結している。
「一大事、一大事。これは歴史に残る一大事だ。なあ、処刑人」
歌うように言葉をつむぐミテン王子。サビトガはややあって、胃の腑が焼け溶けるような猛烈な怒りと嫌悪に顔をゆがめ、聖殿内に集った人々に低く声を投げた。
「貴殿ら……自分のしていることの意味が、分かっているのか……」
人々の半数が、サビトガから様々な仕草で目をそらした。だが残り半数は顔色を変えず、サビトガを見つめ続ける。何名かは鼻を鳴らし、不遜な態度で嘲笑さえ漏らす者もいた。
サビトガの形相が、人の顔から、獣の貌に変わった。烈火のごとき怒りはもはや声を抑えることすら不可能にした。聖殿中に、サビトガの声が響き渡った。
「今この場に集うことが、どれほど重大な意味を持つのか分かっているのか! 亡き国主の御霊への冒涜、果ては王家への反乱と取られても仕方のない暴挙だ! ……国王を捨て、ミテン王子に鞍替えするつもりなのか……!」
「おいおい、みょうなことを言うじゃないか。父上を捨てこのミテンに鞍替えするだと? 朕は父上から王位を継ぎ、次の時代の国王となるのだ。すなわち朕に付き従うことが、父上に従うことであり、王家に尽くすことになるのだ」
「国王は全ての王子を守れと命じられた! 五人の王子を平等に崇めよと言い残されたのだ! あなたの号令に応え聖殿に集結し踏み汚すことは、国王の遺志に背き他の王子を危機にさらすに等しい!」
「……なあ、処刑人……いい加減に現実を見たらどうだ」
ミテン王子が、真っ黒な目でサビトガを睨め上げた。
「五人の王子を平等に守る? そんなことが可能だと思うのか? 五人が五人とも王となり、仲良く国を支配するのか? 何をするにも五人で協議し、五人全員の納得の上で国を運営することなど不可能だ。ならば権力を五等分し、王室を五等分し、国を五等分するか? 統治の分業……その果てにあるのは戦争だ。必ず戦火が生じる。国を戦乱の世に叩き落すつもりなのか? お前は?」
「文官の入れ知恵を口にすれば俺が黙るとお思いか。王の同時即位が戦乱を呼ぶことなど百も承知。国王の御遺言を実現させることがどれほど困難か、非現実的か。国中の才人が知恵を出し合っても叶わぬかも知れない……だが」
サビトガは床に座る男達を指し、ミテン王子を真正面から睨みつけた。
「このような国辱的な光景を正当なものとして歴史に残すわけにはいかない! 最も家臣の心をつかんだ王子が最終的に唯一王に選ばれるのはまだ良い、しかしあなたは父王の喪中に家臣達に働きかけ、未だ己の管理下にない国庫の金や役職をちらつかせて味方を増やしていた! その結果がこの『聖殿荒らし』だとしたら……法に従い、参加者を裁くが処刑人の務め……!」
その台詞に、今まで黙っていた家臣達がとたんに声を上げ始めた。反論。罵詈雑言。法廷の裁判官達さえそれに加わっていた。
ミテン王子が両手をかかげる。声がやや少なくなる。ミテン王子が両手を振る。さらに声が少なくなるが、まだ騒いでいる者達がいる。
やかましい! と王子が怒鳴って、初めて聖殿が静かになった。その一連の流れが、すでにこのミテン王子による聖殿占拠の底の浅さを物語っていた。
王子の器や人間性に心酔して従っている者など、数えるほどしかいないのだ。
静まり返った家臣達の中から、不意に一人の男が立ち上がった。老齢の武官は、かつてサビトガが兵士だった頃に世話になった将軍だった。
目を細めるサビトガに、将軍は咳をしながら「まあ、なんだ」と切り出す。
「お前の気持ちも分かるが、ミテン王子のおっしゃったことも間違いではない。蜂の巣に二匹の王は入らぬ。必ず最も強い王蜂が他の候補を倒し、一匹のみで巣を支配する。一つの国、一人の王。これは自然界の、太古からの法則だ」
「我々は虫けらではない。人間だ。違法で不誠実な、権威への畏敬のかけらもない行為の果てに選ばれた王では、国は保てない」
「残念だが、それは綺麗事だよ。国とは本来もっと汚れたものなのだ。お前も現役の官の一人ならば、心底では理解しているはずだろう。
……お前は今まで自分が執り行ってきた処刑の全てを、心から誇ることができるか? 自分の行為に、法の判断に、疑問を抱いたことは十や二十ではないはずだ。それでもお前は一切罪人を救わず、人道を無視し、冷徹に血を浴び続けた。人としての道義よりもお役目を取ったのだ。それもまた国を維持するための『汚れ』ではないか。罪悪ではないか。ならば今度のことも私情を捨てて、国全体のことを考えてはくれぬか」
将軍の言葉を聞くうちに、サビトガの脳は次第に灼熱の玉のように高熱を発し始め、体中の血が逆流するかのごとき凄まじい感情の波を全身に伝えた。
怒りなどという言葉では表現し切れない、あまりに強い、憎悪にも似た激情。所詮処刑という行為の過酷さも、恐ろしさも知らぬ職業軍人が、知った風な口を自分に対して利いたことが何よりも許せなかった。
耐え難い拒否感が口をつき動かし、次の瞬間にはサビトガは感情のままに、にごった怒声を将軍に叩きつけていた。
「ふざけるな老いぼれがアッ! 俺の役目を『汚れ』だとぬかすのか!! 誰もが嫌がる死刑の執行を、命の刈り取りを国王の命で遂行し続けた処刑人を侮蔑するのか! 反逆者の分際でいったい何様のつもりだッ!!」
「! 待て、私は……!」
「綺麗事だと!? いかにも貴様の言う綺麗事を、法の絶対的な正しさを、王の権威を、白刃に載せて振るうのが王室処刑人だ!! 法治国家における必要悪、合法的殺人者だ!! そんな俺が所詮真っ当な戦場での殺し合いしかしたことのない軍人の、うすっぺらい詭弁に同意するとでも思うか!
教えてやろう将軍! 処刑人が綺麗事を、国家の用意した大義名分を否定したら……即座にただの殺人鬼になってしまうんだ! 法と王の権威の下に在るからこそ処刑人の刃は正しさを持つ! 繕える! さもなくばそこらの凶賊の刃と何も変わらんのだ!
俺は先王の権威の下で、先王の法の下で人を殺した! ならばそれに永久に従うしかないんだ! 己の殺人の正当性、その根拠から離れるわけにはいかない! それが処刑人という人種なんだッ!!」
サビトガは口上を言い切り、荒く息を繰り返しながら、将軍を睨み続けた。
そうして何秒かの時間が経った後で、ようやく事態に気付き、しまったと、陶器のあご骨に手をやった。
将軍は床に目を伏せ、心底すまなさそうな顔で唇を噛んでいる。
静まり返った場で、ややあって地の底からわきあがるような笑み声をこぼすのは……ミテン王子。
「なるほど。それが本音か。処刑人」
後悔しても遅かった。国の正当性、国王の遺志、王座につく者とそれをあおぐ者の品格と道義を語る場で、サビトガは己の処刑人としての怒りと都合を吐き散らしてしまったのだ。
サビトガはもはや王家の行く末を案じる忠臣ではなく、己の役目と業に苦悶する、哀れな小役人でしかなかった。




