二十二話 『こいつを捨てて来い』
『おい、明日、こいつを捨てて来い』――
実の息子の髪を梁に結びながら、まるで裁判官のように厳かな声でその台詞を吐くことが、レッジの父親の日課だった。
罪状は食事を残しただとか、寝相が悪いだとか、隣の家の子のように元気に遊ばないだとか、主にレッジの日常生活を送るにあたっての『努力の欠如』が問題とされた。
そんな時レッジの母親は、息子が自分の髪をつかんで必死に床をぴょんぴょん飛び跳ねているのを心配そうに見つめながら、蚊の鳴くような声でこう言うのだ。
『レッジ、お父様に謝りなさい』――と。
レッジの家は国内でも有数のガラス工房を経営していて、父親はそこの工房長だった。母親は一つ下の副工房長の立場にあり、つまりレッジの両親は夫婦関係にあるとともに、雇い主と部下の関係でもあったのだ。
母親は日頃から雇い主としての父親に管理され、叱責され、とうの昔に歯向かうことをやめていた。父親は常に正しく、彼が怒るのは自分や部下や、息子が、不誠実な行為をするからだと信じていた。
当然のなりゆきとして、レッジもまた母親と同じ思想を持つようになった。父親に虐げられたなら己の愚かさを恥じ、後悔を言葉にして許しを乞うた。
そしてレッジは母親と全く同じに、自分の父親に対して従順で寛大で、好意的な解釈をする子供になった。
父親が子供にでも分かるような、明らかに間違った判断をした時は、毎日朝から晩まで家族のために働いて疲れているからだと口をつぐみ、その労働に感謝した。
父親が理不尽な言葉を吐き、家族をまるで犬のように怒鳴りつけた時も、きっと彼には自分達妻子が思いも及ばぬような崇高な正義があり、それを察せられぬ自分達が愚かなのだと反省した。
当然の帰結として、父親の家族に対する扱いはぞんざいで傲慢極まりないものとなり、母親とレッジの精神はまるで屋根裏で干からびたネズミのように疲弊し、萎縮していった。
――十三年。レッジが生を受けてから実に十三年もの間、父親が家にいる時は常に神経をはりつめ、己を殺す苦難の日々が続いた。
『こいつを捨てて来い』の台詞を聞かなかった日は数えるほどしかない。それが脅しなのか本気なのかは分からなかったが、そのことを差し置いてもレッジは、父親が自分を名前で呼ぶのを一度として聞いたことがなかった。
『こいつ』、『そいつ』、『そのガキ』、『それ』――父親はレッジをそんな風にしか呼ばなかった。レッジ・スワロー、岩棚を飛ぶツバメという唯一無二の名は、母親と友達、学校の先生しか口にしなかった。
父親の工房の労働者達ですら、工房長にならってレッジを『それ』と呼んでいた。
レッジはまるでモノだった。人間として扱われていなかった。そしてそれは、すべてレッジが食事を好き嫌いしたり、だらしない寝方をしたり、元気はつらつと遊ばなかったり、男のくせに女の子みたいな軟弱な顔をしているのが悪いのだ。
正義にかなわぬ存在だから、虐げられて当たり前なのだ。
毎日を後悔と反省の中に生きるレッジに、母親はよく大人向けの訓話や、国内外の英雄譚を記した本を買い与えた。『立派な大人の話を読んで、お父様に怒られないように努力しなさい』……そう無表情に言い、ぶ厚い高価な本を手渡した。
レッジは言われたとおりに、この世で最も優れた聖人、賢人、英雄達の教えと生き方をむさぼるように学んだ。人と世に優しく、一時のあやまちを大きな心で許し、巨悪に果敢に立ち向かうことの偉大さ、素晴らしさを、人間存在の無限の可能性を魂に刻み続けた。
それがまさか後にレッジを歪んだ父親信仰から解き放つこととなろうとは、レッジにも、レッジに本を買い与えた母親にも、知るべくもなかった。
……転機は、レッジが十二の夏を迎えた頃に訪れた。
国内に貴族が出資した高い技術で製品を作る新しいガラス工房ができ、レッジの家の工房からにわかに客足が遠のき始めた。
従業員が多く新工房に引き抜かれ、経営難におちいった父親がレッジに工房を手伝うよう命じたのだ。
レッジはまずこの時点で父親の正気を疑った。十二になったレッジにはすでに相当の知恵がついており、国内法では十五歳未満の少年が、ガラス製造のような高等技術を扱う現場で働くことを禁じられているということを、常識として知っていた。
だが父親はレッジを十五歳と偽って役場に届けを出し、さらに偽名を記載して遠い親戚の子を雇ったと事実を捏造した。
書類に記された偽名は、レッジの素晴らしい意味のふくまれた本名とは比べものにならないような、平凡で浅はかな名前だった。
父親が怠惰と無関心からレッジの『名づけ』に一切関与していないことを知ったのは、この時だった。
十二年ゆらぐことのなかった父親への服従心がにわかに崩れ始め、そしてレッジが実際に工房で働き始めてからは、急速にその瓦解速度が増した。
レッジは自分の父親は立派な経営者で、献身的な労働者で、ゆえに多少の間違いも許されるべきだという考えを長年抱えてきた。
母親から買い与えられる本に登場する英雄達の教えに背いていても、それは父親が英雄達ほど心が強くない凡人で、それでも家族のために、従業員のために必死に身を削って働き、神経がすりへっているからこその『間違い』であり、そのような間違いは大きな心で許されるべきだと、そう考えていた。
大勢の人間の生活のために働いている素晴らしい人なのだから、せめて家庭内で家族を虐げる程度のことは、大目に見るべきだ。
そんな意見を、レッジは母親や、労働者達や、教師の口から聞き、ずっと己のものとしてきた。
それが間違いだったのだ。
実際に両親の工房で働いてすぐに分かった。レッジの父親は、すぐれた経営者でも労働者でもなかった。
彼は社会に働きに出たばかりのレッジが絶句するほどの、一切の弁護の余地もない、何の役にも立たない正真正銘のクズだった。
ガラス工房の長でありながらガラスが何でできているかも知らず、その製造過程も加工過程も理解していない。製品を作るために必要な費用も時間も手間も、技術者の価値も分からず、そのくせ現場に口を出し労働者達の成績に難癖をつけ怒鳴りつける。
親から継いだ工房の実績と、そこで長年働き続けている熟練の技術者達の腕に食わせてもらっている、そして食わせてもらっておきながらその足を引っ張っている、最悪の世襲経営者だった。
正常に回っている仕事をかき乱し、工房を訪れた客にやたらと偉そうな態度で接し、面倒な仕事はすべて他人に任せて提出された結果にだけ文句を言う。それ以外の時間は恥知らずにも釣りや犬の散歩に出かけていた。それで人の二倍も三倍も働いたような顔をするのだ。
レッジはそんな父親を、真っ赤に焼けたガラスを加工しながらはっきりと軽蔑の目で見た。父親がかき回した現場をおさめるために客や技術者を必死になだめ、頭を下げ、尻ぬぐいをしていたのは副工房長の母親だった。
父親がことあるごとに役立たずと、ろくでなしとなじっていた母親が、現実には長年工房を支え、まとめていたのだ。日々くたくたになりながら男達以上に働き続け、そして家に帰ってからは黙々と妻として、母として、家事をこなしていたのだ。
こんな馬鹿な話があるか。
工房で一日働くごとに、レッジの頭の中で幼い頃から慣れ親しんだ本の英雄達が声を上げた。
勇猛果敢な北国の勇者も、忠義に一生をささげた南国の騎士も、千の敵を屠った蛮族の王も、多くの罪人を裁いた名裁判官も、誰もがレッジにことの不正を訴えた。
人の罪を許せと説いた高僧も、どんな悪人すらも愛した聖人も、やがては他の英雄達の声に賛同した。
父親を罰しろ。母親を救え。それが正義だと。
レッジは父親に毎日ガラス加工の腕前や勤務態度を責められ、梁に髪をくくられながら一年を耐えた。その一年は母親と労働者達のためにささげた一年だ。工房は以前の隆盛を取り戻すことはなかったが、レッジと母親と、労働者達の努力で何とか存在を維持できる程度には業績を回復した。
レッジはその好転を不十分とする父親の意見を聞いてから、その醜くゆがんだ怒りの形相のど真ん中に、かためたこぶしを渾身の力で叩き込んだ。
父親は全身を激しく揺らしたかと思うと、その場に立ったままぽかんとしていた。鼻血は出ていたが、倒れる気配はない。レッジはもう一度、まったく同じ動きで父親の鼻を打った。
レッジはけっして喧嘩は強くない。十三歳になってなお女のようだと笑われるような体躯だった。母親はレッジの美しい顔つきと髪を愛していて、時々本当に女の子のかっこうをさせる。梁にくくれるほどにレッジの髪が伸ばされていたのも、童話のお姫様のような我が子を母親が欲していたからだ。
母親は、本当は娘が欲しかったのだと言う。だが彼女の腹はレッジを産んだ時に傷ついて、二度と子を産めない体になっていた。
三発目の打撃を繰り出そうとしたところで、父親がレッジの腕をつかんだ。今まで見たこともないような激怒の表情は、まるで人間をやめた悪鬼のようだった。
腹にこぶしを打ち込まれる瞬間、レッジの頭の中に巣食った英雄達がいっせいに剣を抜いた。北国の勇者がレッジの腹に宿り、筋肉を固めて父親のこぶしを受けてくれた。
痛みはあった。だがそれは驚くほどにささいなものだった。毎晩梁に髪をくくられ、悲鳴を上げる頭の皮を必死に押さえつける痛苦に比べたら。それを十三年間味わい続けた怒りに比べたら、本当に取るに足らないものだった。
レッジは胃の中のものを我が家の床にぶちまけながら、真っ白な童話のお姫様のような指を、父親の目に突き込んだ。汚らしい体液が飛び散り、耳ざわりな声が鼓膜を突いた。
「北国の勇者。怪物を殺せ」
ぼそりと吐しゃ物とともに声を吐く。棚の上にあったガラス細工を、父親の後頭部に叩きつけた。
きらきらと血液を映しながら舞い散るガラスが、信じられないほどにきれいだった。
「南国の騎士。敵軍を蹴散らせ」
腰を折った父親の右の足首に、ドアを勢い良く開けて金具部分を叩きつけた。
転倒する父親の音が、なぜだか心底愉快だった。
「蛮族の王。裏切り者を吊るせ」
床を這う父親に向かって、食器の詰まった棚を倒した。
陶器とガラスが砕け散る騒音に混じった骨折音に、うっとりと耳をすます。
「帝国の裁判官。罪人を裁け」
食器棚を揺すり、蹴りつけると、この世のものとも思えない絶叫が響き渡った。
これは、これだけは、不快だった。ぎょろりと眼球を転がすと、レッジの足元で父親が血まみれで泣いていた。
――ああ、なんということだ。
レッジはこの時、心底悲しみ、己の運命を呪った。
自分と母を長年苦しめた最悪の父親が、生きる価値もないクズが、まるで幼児のように泣いている。痛みに苦しみ、もがいている。
その無様な姿を見て、レッジはあろうことか、哀れみを感じたのだ。
脳裏を凄まじい速さで思い出が駆けめぐる。レッジに笑顔を向け、様々な慈悲を与えてくれた父親の姿が目に浮かぶ。
お前はかわいいクズだと、頭をこづいてくれた日のこと。せいぜい立派な大人になれと、口にすれば絶対に吐き戻す体質に合わない牛の肉を焼いてくれたこと。
学校で描いた絵を笑顔で破り捨ててくれたこと。深夜に寝室の扉を開けてくれたこと。すべてが悪い病のようにレッジの脳を駆けめぐった。
慈悲深いレッジ。情愛にあふれたレッジ。彼は全人類が涙するほどに寛大で、愚かな少年だった。
泣き乱す父親に感じたのが哀れみではなく、極限の情けなさだと気づくのに、時間はかからなかった。
レッジは扉の向こうで立ち尽くしていた母親に、顔も向けずにこう言った。
「おい、明日、こいつを捨てて来い」
傾いた床に寝転んでいたレッジを、窓の外からの呼び声が覚醒させた。
くるまっていた麻布から頭を出し、大あくびをする。その間も窓の外の声はレッジの名を連呼し、次第に呼びかけの間隔がせまくなってくる。
産道の村に朝がきたようだ。だが地底に陽が差すことはなく、眠りにつく前とまったく同じ暗さが世界を包んでいる。
「レッジ!レッジ!レッジレッジ!」と狂ったように繰り返す声に仕方なく身を起こし、ガラスのはまっていない窓から頭を出した。
火のついたブナの枝をかかげたシュトロが、地面からレッジを睨んでいた。昨夜はみな思い思いの家を寝床に選んで休んだ。少女とレッジは一人で休息を取ったが、シュトロとサビトガは同じ家で寝たはずだ。
単純に仲が良いのか、それとも神経が図太いのか。二度とは訪れないかもしれない安全な一人寝の機会を捨てるなど、レッジにはとても理解できなかった。
「このクソ野郎! いったい何回呼ばせんだ! 扉にカギなんかかけやがって、朝飯だぞボケッ!」
「ねえ、シュトロ。さっき僕を名前で呼んでたのかい」
一瞬黙ったシュトロが、直後に大声でレッジを罵倒した。
「寝ぼけんじゃねえ! てめえが『こいつとかそいつって呼ぶな、名前で呼べ』って啖呵切ったんだろうが! レッジレッジ、おおレッジ、これで満足かボケナスッ!!」
「……」
「とっとと降りて来い! 食ったらすぐ出発だってよ!」
怒鳴りながら去って行くシュトロの背を、レッジは髪をかきながら眺める。
母の愛した長さを失った髪から、一本の金糸がはらりと窓の外に落ち――――その後を、小さな笑い声が、追った。