十八話 『落下』
「地割れの中に入るだと!? 正気か!?」
すっとんきょうな声を上げるシュトロに、すかさずレッジが何度もうなずきながら意見を述べた。
「地割れに入るなんてことは、僕の祖国の『ハスク民主国』じゃ子供用の訓話のネタになるくらい馬鹿げたことだよ。地割れ、洞窟、古い坑道。この三つはいつふさがってもおかしくないからめったな事では立ち入ってはならない。そう大人達は口をすっぱくして何度も子供達に教え込むんだ。見知らぬ洞窟を見つけて平気で潜って行く海外のおとぎ話の主人公。あれは実はものすごくバカな連中なんだって、僕は親にも学校の先生にも耳にタコができるくらい……」
「ぐちゃぐちゃうるさい。オマエの国の訓話なんか知るか」
少女がレッジを睨み、地面の亀裂の前に立った。サビトガとシュトロによって落ち葉と腐葉土を取りのぞかれたそこは、ただただ深淵のような闇の入り口でしかない。中に何があるのか、地上からうかがい知る余地などなかった。
その闇の入り口に、少女が片足を差し込む。息を呑むサビトガ達に、少女は振り返りもせずに言った。
「なるべく身軽な格好で来い。特にそこの、ぐちゃぐちゃうるさいキンキラ頭。オマエの鎧はこの先『足かせ』になるから、死にたくなきゃ全部脱いでから飛び込むんだな」
目を剥くレッジが口を開くその前に、少女は地面を蹴って、まるで吸い込まれるように地割れの中に消えた。
男達はすぐさま地割れに駆け寄り覗き込む。しかし濃厚な闇はすでに落ち行く少女のすべてを呑み込んでいて、そこに漆黒以外のどんな色も見つけることは叶わなかった。
三人は顔を見合わせ、やがてレッジが震える声で「やっぱり魔物だ」と言った。
「こんな得体のしれない穴に命綱もつけずに飛び込むなんて、やっぱりあれは魔物のたぐいなんだ……きっと落ちる途中で羽虫かコウモリに変身して、ぼくらが続いて飛び込んで来るのをにやにや笑いながら待ち構えてるに違いないよ」
「馬鹿なことを……」
「いや、きっとそうさ。僕のパーティーが全滅した時と同じだ。自分では手を汚さず、人間を危険な場所に誘い込んで自滅させる陰険なモンスターなんだよ。想像してみてよ、穴の途中でパタパタ羽ばたきながら浮遊してるコウモリが、落下する僕らと目が合ってニタッと笑うんだ。僕らは何もできず、やがて穴の底の固い地面に叩きつけられて哀れな最期を……」
「よし、相棒。こうしよう」
シュトロがレッジのほとばしる妄想をさえぎり、サビトガに向かってぴん、と人さし指を立てた。直後。
シュトロの靴がいきなり風を切り、レッジの腰を地割れのほうへ蹴り飛ばした。絶叫しながら、まっさかさまに地の底へ落ちてゆくレッジ。目をひん剥くサビトガに、シュトロはカカシを背負い直しながら言った。
「うだうだ言ってたって始まらねえや。俺はあのレッジみてえに、気にいらねえことや説明のつかねえことを全部『魔』のせいにして納得しようとは思わねえ。あの女の子はどう見てもただの人間だぜ。ただの女の子が先陣切って飛び込んだってのに、俺達大の男がビビって逃げ出すってのは、しゃくじゃねえか。
行ってやるよ。根性見せてやる。ガキになめられてたまるかってんだ。そうだろ?」
ん? とくちびるをつり上げてみせるシュトロ。サビトガは目をまん丸に剥いたまま、ゆっくりと口を開く。
「……鎧を、脱いでから来いと、言ってなかったか」
レッジの落ちていった地割れを指さすサビトガに、シュトロは数秒沈黙した後、再度「ん?」と喉を震わせ、眉をひそめた。
次の瞬間、二人ははじかれたように地を蹴り、地割れに飛び込んだ。「やっちまったあッ!」と叫ぶシュトロと「やっちまったで済むかッ!」と怒鳴るサビトガの声が、落下する彼らの頭上に取り残される。
体が闇をくぐった。足先から上がって来る風は冷たく、肉体は重力に導かれるまま一気に加速する。まるで、闇夜の嵐に立っているような心地だった。すぐ横で叫んでいるシュトロの顔すら見えぬ漆黒の視界の中、サビトガは手にした槍をしっかりと握りしめ、風切る足の向こうを凝視する。
地に叩きつけられれば確実に命を失う落下速度だ。視界の喪失と死の気配に体感時間は増幅し、サビトガは穴の中を長く長く落ち続ける。
そうして、やがてサビトガの目が、漆黒の中に何かのゆらめきを捉えた。これは何だ? 考える間もなく、全身に凄まじい衝撃が走る。
冷気に包まれる体。遮断される空気と、わずかな浮遊感。
視界をよぎる無数の泡に、サビトガはようやく自分が入水したことに気づく。先ほど目にしたゆらめきは水面のそれだったのだ。地割れの底には地下水が溜まっていた。それも塩辛い海水ではない、真水が。
サビトガは入水した姿勢のまま、しばらく動かずに肉体がどこへ向かうのかを確かめた。もし肉体が底へ沈むのなら、荷物や防具を捨てて泳がねばならない。だが幸いなことに、サビトガの体は少しずつだが、上昇していた。
泡とともに水面を目指しながら、サビトガは考える。入水する直前、水面のゆらめきが視認できたということは、この地底湖には何らかの光源があるということだ。光のない場所で水面がきらめく道理はない。水中に光源はないから、灯りがあるのは水面の上だ。
ゆっくりと首をのけぞらせ、頭上を見上げるサビトガ。その視線の先に、不意に恐ろしいものが映った。
魚影だ。それもサビトガの腕では抱えきれないほどの大きさの、鮫に似た大きな生き物の影が、薄闇の中を泳いでいる。
水面にはあわいオレンジ色の光も見えたが、サビトガは両腕で水をかき、浮上する体を留めにかかった。頭上の魚影を警戒しながら、周囲にすばやく視線を走らせる。
驚くほど近くにシュトロの顔があった。彼も魚影に気づいていたようで、しきりに頭上を指しながら首を横に振っている。サビトガはうなずきながら、さらに視線をめぐらせて先に落ちたレッジの姿を探した。
レッジは、シュトロとは逆方向の水中でもがきながら、ゆっくりと水底に向かって沈みかけていた。重い鎧のせいで体が浮かばないのだ。サビトガはシュトロとともに、水中を泳いでレッジのもとへ急ぐ。
レッジはサビトガの姿に気づくと真っ青な顔でしがみついてきた。サビトガはレッジの腕を押しのけながら、その鎧の接ぎ目を指さし、シュトロを振り返る。
シュトロはうなずきながらカカシの剣を抜き、水中でレッジの鎧を外しにかかった。暴れるレッジの体にまさに枷のように張りついた鎧の接合部、革のベルトや麻紐を切り外し、一つ一つパーツを外しては、水底へ投棄する。
やがてレッジの鎧がすべて剥がされると、サビトガはレッジの服の襟を後ろからつかみ、引きずるように水面へ向かって泳ぎ出す。
頭上の魚影は、いつの間にか消えていた。サビトガは周囲を警戒しながらも、既に限界に達していた息を継ぐため全力で水を蹴る。
水上のオレンジ色の光が不意に鮮明になり、サビトガの頭が水面をくぐった。
ぶはっ! と大きく息を吸うと、続いてレッジとシュトロの頭も浮上し、同じような音を立てる。
肺に必死に空気を送り込んでいるとオレンジ色の光が強まり、光源たる松明を手にした少女が岸を歩いて近づいて来た。その紫色の目が、嫌悪にも近い不快の色に染まっている。
「身軽な格好で来いと、ちゃんと忠告したのに……バカなのか、オマエ達……」
「この男のせいだッ! いきなり蹴落とすなんて何考えてるんだ!!」
レッジが泣きながらシュトロを指さし、水面を手で叩いて「大っ嫌いだ!」とわめく。
対してシュトロは「ちゃんと助けただろ!」と怒鳴り返しながらも、さすがに気まずげに顔をゆがめて目を合わせようとしない。ますます暴れ出すレッジを、サビトガは気の毒に思いながらも叱咤した。
「レッジ、あまり騒ぐな! 鮫がいるんだ! 寄って来るぞ!」
「あれは鮫じゃない。スタージオン(チョウザメ)だ。エビとか貝を食べるおとなしい魚で、歯が一本もないから噛みつかれる心配もない」
ひざを折り、左手でほおづえをつきながら言う少女に、サビトガ達は顔を見合わせる。少女が深くため息をつき、松明をぼうぼう音を立てて左右に振った。
「この湖は上のブナ森に染み込んでろ過された雨水が溜まったものだから、海にしか棲めない魚は泳いでない。泳いでるのはスタージオンと、ゴミみたいな透明のエビだけだ。どっちも人間を襲ったりはしない」
「……」
「オマエらが勝手におぼれて勝手に騒いでいただけだ。満足か? それとももっとバッチャバッチャ水を叩いて遊びたいか? スタージオンは優しい魚だから水面を泳いでたら寄って来る。産道の民は魚を食べる習慣がないが、異邦人にはスタージオンの卵を好むヤツが多い。欲しいなら捕まえてもいいぞ。それで子供みたいにキャーキャー言って喜んでればいいんだ。いい年した大人のくせに」
サビトガ達は少女がしゃべっている間に水面を泳ぎ、岸に上がっていた。なめらかな黒石が鱗のように固まった足場で、泥や土はなかった。
濡れた服をしぼるシュトロとレッジを背に、サビトガは自分を睨む少女へ前髪をかき上げながら「誰にだって間違いはあるさ」と眉を寄せた。
「お手柔らかに頼むよ。俺達は君と違って、魔の島のことはほとんど知らん。君だけが頼りなんだ」
「……おべっかはいい。風邪を引く前に村に行って、火を起こすぞ」
少女はぷいと顔をそむけて歩き出す。髪をしぼりながらその背を見つめるサビトガに、シュトロが何がおかしいのか、えへらえへらと笑いながら近づいて来た。
「ガキめ、いっぱしに照れてやがったぞ。その調子でおだてて垂らし込んで、もっともっと性格丸くしてやってくれよ、二枚目の旦那」
「馬鹿言ってないで、お前はちゃんとレッジに謝っておけ」
サビトガが親指で指した瞬間、鎧をなくしてすっかり体の線が細くなったレッジが盛大にくしゃみをした。
少女が「さっさと来い」といら立たしげな声を上げる。
遠ざかって行く松明の光に、三人はあわてて小さな案内人の後を追った。




