十七話 『錆びた鉄の箱』
朝食の後、アッシュはダストと共に草原へ出た。
頭上の雲は厚く、世界は薄暗い。一雨くるだろうかと期待したが、ダストははっきりと「今日は降らない」と断言した。
「風がない。雲が完全に静止している日は、モルグが眠っている証拠だ。こんな日は一粒たりとも降らないさ」
「この国の風は、モルグが作っているの?」
「ほぼ、そうだ。他国から吹き込む風や海からの風もあるが、モルグの領域……コフィンの地に生じる風のほとんどは、モルグの生命の息吹がもたらす力だ。それがこの地の神話であり、世界観でもある」
ふうん、と竜の兜の奥で目を細めるアッシュに、ダストは木の根で作ったかごを押しつける。
自身も同じかごを持ちながら「今日は花をつもう」と、地平線を指さす。
「コフィンの花は、何もコートリのような恐ろしい毒花ばかりではない。草と同じ色だから草原に埋没してしまっているが、『ラムライ』という真に無毒の甘い蜜を作る花がある。コフィンで菓子を作る時に使うことができる、数少ない糖分だ」
「昨日の話に出てきた、建国のお祭りに配られるお菓子の材料ね」
「そういうこと。非常に見つけにくいので発見されたラムライは一部の例外を除いて丸ごと国王に献上し、国の畑で育て増やすのが決まりになっている。王城の畑はスノーバの連中に掘り返されてしまったようだが……今から向かうのは、俺が見つけたラムライの花畑だ」
「遠いの? 正直、あまり陽が高いうちに草原をうろつくのは怖いんだけど……スノーバの冒険者も、いるだろうし」
ダストが歩き出しながら、肩をすくめる。
「少し歩くが……まあ、心配するな。どの集落からも離れた場所だし、今日はちゃんと『武装』してきた。そう言えば、尻の傷はもういいのか」
武装って、そこまでしてお菓子用の花をつみに行くことないんじゃないの。
アッシュは世話になっている手前、喉元まで出かかった言葉を呑み込んで、自分の尻をなでながら質問に答えた。
「あっ、うん。ダストが塗ってくれた薬がよく効いたみたい。ありがとう」
「なによりだ」
二人は草原を、前後に並んで歩く。無風の大地はとても静かで、靴が草を倒す音も、土を踏む音も、まるで虚空に吸い込まれていくかのようだった。
アッシュはしばらくダストの白馬の尾のような髪を眺め続けていたが、やがて再び、口を開いた。
「昨日の話だけどさ……ダストはつまり、この国の王家に仕える、家臣だったんだよね」
「ああ」
「お偉いさんなんだ」
「昔はな」
「私、偉い人に助けられたり、優しくされたのって初めてだよ。王様の家臣なんかと出会ったら、地面に頭すりつけてごめんなさいするような身分だったもん」
ダストが歩きながら、わずかに首をねじってアッシュを見た。「何故謝る?」と訊く彼に、アッシュはあごに指を当てて答える。
「何故って、そういうものじゃない? 身分ってさ。高貴な人や偉い人の前に立ったら、失礼しましたってひざまずくのが普通でしょ?」
「道をあけて敬意は払うかも知れんが、謝りなどしない。人が人の視界に入っただけで罪になるなど、下らん」
「でも、世のお偉いさんはダストみたいな寛容な人ばかりじゃないから」
「……俺は別に、寛容じゃない」
再び前を向き、低木の枝を素手で払いながら進むダスト。
アッシュは折れ曲がった枝を見つめながら、少しばかり声を落として、訊いてみた。
「ダストのお父さんはさ……ダストが王様の下で働いてるのを、どう思ってたんだろうね」
「分からん。自分が捨てた息子が、自分と同程度に国王に重用されるのを彼がどう思っていたか……俺は、きっと屈辱に歯噛みしていると思っていた。俺のことを目障りな、いまいましい、邪魔者と思っていると。
だからこそ俺は彼の目の前で、国のために働き続け、功績を上げた。王の政治を、戦争を、知略で支え続けた。時には助言機関である元老院以上に王と言葉を交わし、刺客を差し向けられたこともあった」
「刺客って……暗殺者!?」
「政治の世界ではままあることだ。その時は未遂に終わったがな。ただ……俺を露骨に排斥したがっていたのは、いつも元老院や、一部の貴族だった。親父が俺に害を与えようとしたことは、一度としてなかったよ」
ダストが、首を傾け、ぽきりと骨を鳴らす。
次いで前方の、小さな家屋の敷地程度の草むらを指さし、「そこだ」とつぶやくように言った。
きょとんとするアッシュが、少し間を置いてから、ああ、と得心する。いつの間にか目的地に着いていたのだ。
花畑と形容されていた場所は、どう見ても草原に散在する他の草むらと変わらないが。
アッシュの心を見透かしたように、ダストがわずかに口角をつり上げた顔で指示する。
「草をかき分けてみろ。ヒトデのような形の緑色の花が、たくさんあるはずだ」
「……あっ、ほんとだ。わりとおっきいね」
「花は地面から生えたつるから咲いている。つるをよく見て、一つのつるに最低二つは花を残してつむんだ。来年もまた咲くようにな。根こそぎつむのは、阿呆のすることだ」
はい、と返事をして、アッシュはラムライの花を慎重につみ始めた。手袋をしてこなかったが、ラムライも、くさむらを構成する他の植物の葉もやわらかく、指が傷つくことはなかった。
ふとダストを見ると、彼は草むらの奥へと踏み入り、腰を屈めて何かをつかみ上げていた。目をこらせば彼が手にしているのは錆だらけの鉄の箱で、すりきれてはいるものの、コフィンの国旗と同じ紋章が彫り込まれている。
箱のふたを開けて中を覗いている彼に、アッシュは率直に「何、それ?」と声をかけていた。
「なんで花畑の中に鉄の箱が置いてあるの? 錆び錆びじゃない」
「あまり良いものじゃないから気にしなくていい。それより蜂に気をつけろ。蜜に寄って来るんだ」
アッシュはダストがそう言いながら、箱の中から素早く何かを取り出し、ポケットに突っ込んだのを見逃さなかった。再び草むらの中に埋められる鉄の箱。
じっとポケットを見つめるアッシュにくるりと背を向け、ダストが花をつみ始める。
奇妙な行動。態度。
好奇心が刺激されたが、ダストの背は明らかに詮索を拒んでいるように見えた。
『今、ポケットに何を入れたの?』
『その箱の紋章、コフィンの国旗のマークだよね?』
『もしかして本当は花摘みの名目で、箱の中身を取りに来たんじゃない? 私一人を家に置いとくわけに行かないから、一緒に連れて来たんじゃない? ちょっとポケットの中見せてよ。誰にも言わないから』
ぶるぶると首を振り、アッシュは頭に浮かんだ台詞を振り払った。
何を図々しい。何でも知りたがるのは、冒険者気質の悪いところだ。
彼がこうも露骨に説明を拒むのなら、無理に聞き出すことはないじゃないか。
きっとあの草むらに隠された鉄の箱は、ダストにとっては重要な秘密なのだ。それこそ彼の身の上話や、父親との因縁以上の……
「親父の話だが」
思考を読まれたようで、どきりとした。
顔を上げれば、ダストがこちらに体の側面を向けている。草むらに突っ込んだ手は動かしたまま、視線もくれず、アッシュに語りかけてくる。
「親父のことは、最後まで分からなかった。ろくでなしの、最低の父親だったことは間違いないが……正直……今となってはあの男は、俺が国王に重用されていくのを、どこか、喜んでいたような気もするんだ」
「……」
「俺の憎悪を、嫌悪を、喜びで受け止めていた。ふざけた話だ。そんな資格が自分にあると思っているのか。……いや……父親の資格がないと思っていたからこそ、俺と言葉をかわすこともしなかったのか。無言で、俺の成長を見守っていたとでも言うのか」
「お父さんは……最期にダストを、守ったんだよね」
確か。そうつぶやくアッシュに、ダストは何度も「そうだ」と繰り返した。
彼のかごは、すでにラムライの花でいっぱいになっている。なのになおも花をつみ、アッシュに近づいて来て、彼女のかごに放り込んでくる。
「ずっと口を閉ざしておいて、処刑前夜に会いに来ることもしないで、ギロチンの刃が落ちる瞬間にだけ駆けつけやがった。俺の上にかぶさって、死にやがった。おかげで俺は……自分が何をしてきたのか、何を憎んできたのかさえ、分からなくなったんだ」
「あの……訊いてもいい?」
こぼれんほどに花を詰め込もうとするダストの手を、アッシュがつかんだ。
暗く沈んだ男の目を、兜の奥の瞳が見すえる。
「あなたは、いったい、何の罪を犯したの? ちゃんと教えて欲しいの。王様にそれほど信頼されていたあなたが、何故ギロチンなんかにかけられたのか」
「……」
「ねえ」
「君と会えて、本当に良かったと思えることが二つある」
ダストが、かき分けた草を元に戻しながら言う。
満杯の花かごを手に草むらから離れると、地平線の向こうに見える山脈の頂に臨み、息を吐いた。
「一つは、髪の編み方を教えてもらったことだ。これは本当に良いものだ。おかげで快適に本が読める」
「あのね、ダスト」
「二つ目は、独り言が減ったことだ。君が現れる前の俺は、誰もいないのにしょっちゅう思考を口にしていた。人間と言葉を交わしたのは、久方ぶりだった……君がいなければ、こうして自分の過去や因縁や、感情を吐き散らすこともできなかっただろう。俺は、君のおかげでずいぶんと救われているんだ」
振り返るダストの視線に、アッシュは思わずうつむいて花かごの中を見た。
いえ、そんな、危ないところを助けてもらった上に寝るところと食べるものまで頂いて、お礼を言うのは私の方ですとも。
そんなことを少しばかり顔を赤らめながらぶつぶつつぶやくアッシュの肩を、不意にダストがつかんだ。
いつの間にか近づいていた顔と顔にどきっとするアッシュに、ダストは少し間を置いてから、口を開く。
「本当は、察しがついてるんじゃないのか」
「えっ……」
「君を助ける時、俺はラヤケルスの遺物を、人の屍でできた化け物を使役した。家にはラヤケルスの環の資料があり、俺は……魔王と呼ばれた男の、足跡を研究している。
その行為自体が、コフィンという国でどう評価されるか、分かるはずだ」
「それは、その……あまり、良くは思われない、よね……」
「万死に値する」
静かに響くダストの声が、アッシュの耳の中で渦をまいた。
ダストが、唇を兜の耳元に寄せて来る。胸と胸が触れ、反射的にアッシュは兜越しに鼻を押さえた。違う。そんなんじゃない。分かっているのに、くしゃみが出そうだった。
ダストがささやく。妙に優しい声で。
「君がモルグの姿を見ることができたら、その時に詳しく話すよ。君の望みが叶った後に、俺の望みの話をする」
「……ダストの望み?」
「ああ。俺の……『夢』だ。悪しき夢かもしれないがな。さあ、もう帰ろう。家で蜜を容器に入れるのを手伝ってくれ」
ダストは体を離し、おそらく笑みを浮かべようとして、口端を引きつらせた。
そのまま背を返して歩き出す彼を、アッシュはしばらく見つめて……妙に高鳴る心臓を感じながら、後を追った。
草むらに没した鉄の箱のことなど、既にアッシュの頭の中からは、消えうせていた。