十六話 『岩棚のツバメ』
シュトロの道しるべ、倒した野盗の持ち物で張られた紐は、確かにサビトガの樹皮の紐の道しるべと連結されていた。
万一野盗の生き残りがいた時にそなえて、樹皮の紐はたどりながらに回収する。首吊り罠を放棄するのは無念だったが、敵に後をつけられる危険は冒せなかった。
樹皮の紐を指で巻き取りながら歩を進めると、やがて落ち葉の塹壕が視界に入る。ほっと息をつくサビトガとシュトロに対して、サビトガに背負われた青い鎧の男の表情は硬い。
サビトガはそれを無理もないことと考えたが、シュトロは違った。彼は片手にカカシの顔を下げたまま、青い鎧の男を睨みつけた。
「おいてめえ。いい加減にその辛気臭えツラをやめたらどうだ。こちとらまがりなりにも命の恩人様だぞ。もっと愛想良くしてもバチは当たらねえだろうが」
「……」
「聞こえてたぜ。大の男が泣きながら『誰か、誰か』ってよ。ごたいそうな鎧も剣もおかざりだな。情けねえ」
男がきっと目をつり上げて、シュトロを睨み返した。だが彼が口を開く前に、サビトガがシュトロへ「よせよ」と声を投げる。
「野盗の集団に襲われたんだ。誰だって取り乱すし、助けを求めることも間違いじゃない。非難する筋合いじゃないだろう」
「あのな、相棒。俺だってこいつが縫い物針しか持ってない女の子だったらこんなこたあ言わねえよ? けど見てみなよ。このあんちゃんぴっかぴかの剣を鞘に入れたままぶっ倒れてたんだぜ。武器があるのに、戦おうともしなかったってことだ。俺はそういうのがいっちばん嫌いなんだよ」
「……レッジだ」
ぼそりと言った青い鎧の男に、シュトロが横目をやる。
「あんだってぇ?」
「レッジだ、と言ったんだ。僕の名前はレッジ・スワロー。『岩棚に飛ぶツバメ』という意味だ。過酷な環境でも逆風を裂いて進む、そんな強さを持った子に育って欲しいと母が三日三晩悩んでつけてくれた名前だ。だから僕のことを『こいつ』とか『そいつ』とか呼ぶのはやめてくれ。それは僕の名づけ親に対する侮辱だ」
眉を寄せるシュトロが「知ったことかよ」と吐き捨てるように返すと、男、レッジは声を高くしてさらに続ける。
「あなた方には命を救ってもらって本当に感謝している。心からお礼を言う。でも名前に関してだけはゆずれないものがあるんだ。子供の頃、初対面で僕を指さして『こいつ誰だ?』ってぬかした同級生の口にこぶしを突っ込んで、血が出るまでなぐったことがある。親にも学校の先生にもこっぴどく叱られて今では本当に反省しているけれど、とにかくそれぐらい嫌なんだ。『こいつ』呼ばわりが。
僕のことは名前で呼んでくれ。『お前』でも『君』でもいい。でも『こいつ』と『そいつ』だけはやめてくれ」
急に舌が回りだしたレッジの様子に、シュトロとサビトガは顔を見合わせる。
レッジはこめかみを押さえ、それからぐずっ、とみょうな音を立てた。見れば腫れた顔をさらにぐしゃぐしゃにして、涙と鼻水を垂らしかけている。
「でも、そんなに大事にしていた名前も、今の僕には名乗る資格がないかもしれない。逆風を裂くツバメ……? 実際の僕はまるで、泥たまりでおぼれるカッコウのようだった。知ってるかい? カッコウは自分の巣に卵を産まず、よその鳥の巣に勝手に卵を産み逃げする鳥なんだ。そして巣の主に何食わぬ顔でやっかいになり、大人になるまでエサを運んでもらう。生存競争という戦いから逃げて、他人の力で生きながらえる卑怯な鳥なんだよ。いや……『他人』じゃなくて『他鳥』かな……」
「おい、大丈夫かお前。何が『他鳥』だよ。頭でも打ったんじゃねえのか」
シュトロの言葉に、レッジはとうとうサビトガの背に涙をぼとぼと落としながら「大丈夫じゃないよお」とうめいた。
「君の言うとおりだよ。僕はあの野盗達が現れた時、剣も抜けずに立ち尽くしていたんだ。魔の島には年に何十人も冒険者や探検家が訪れると聞いていた。だから島にいる人間はみんな協力者で、仲間だと思ってたんだ。なのに……あいつら、いきなりミュティに斬りかかって、彼女の首を落としたんだ!」
ミュティ。サビトガはその名を、野盗達の一人がつけていたペンダントに見ている。
レッジは名馬の尾のような金髪をかきむしり、続けた。
「ケネルもアルベルもテレスもやられた。僕は戦うべきだったのに、気がつけば逃げ出していたんだ。仲間の仇を討つべきだったのに、怒りより恐怖に心をむしばまれていたんだ。僕は卑怯者だ。卑怯なカッコウだ。自分で戦わずに他人に助けを求めて救ってもらった。僕は……!」
「……恐怖で麻痺していた感情が、戻ってきたんだな。心がようやく、危機を脱したと認識したんだ」
今は泣けばいいさ。そうつぶやくサビトガの背で顔を覆うレッジに、シュトロはしぶい顔で視線をさまよわせたあげく、そっぽを向いてしまった。「仲間のことなんか知らねえもんよ」と不平がましく言う彼の肩にも手を置きながら、サビトガは落ち葉の塹壕へと足を踏み入れる。
シュトロがいつ頃この場を離れたのかは分からないが、塹壕の奥にはまだ火の気配があった。消えた火をまた起こさずに済むことにほっと息をついたサビトガは、他の二人と共に塹壕を歩き、角を曲がり、やがて焚き火を、その視界に収めた。
「――――死相が出ているヤツは、置いて行け」
かけられた声に、足が止まる。
目を丸くするサビトガ達の視線の先、ぱちぱちと勢い良く燃える火にブナの枝をくべる少女は、乾いた血のこびりついた顔と麻服を橙色に照らし出しながら、こきりと音を立てて首を傾けた。
「『産道の民』が、オマエを導くぞ。槍使い――」
少女の口がゆがみ、小さな歯が、傷口から覗く骨のように、夜気に触れた。