十五話 『仮面の悪魔』
シュトロはブナの木陰を、迷いなくガサガサ音を立てて進んで行く。
小走りに彼の後ろに追いついたサビトガは、ズダ袋の顔を引っぺがされてただの藁の玉と化したカカシの頭部を眺め、それからくん、と鼻を鳴らした。
シュトロに背中合わせに負われたカカシの首から、強い血の臭いが漂ってくる。シュトロが頭上の枝葉から降りる月光の柱をくぐると、カカシの首の付け根がぎらりと光った。
藁の間にかすかに覗くのは、無骨な剣の柄と、刃だ。
目を細めた瞬間、「そう言えばよお」と、シュトロが前を向いたまま口を開いた。
「あんた、なんで俺がカカシの顔をかぶってることに触れねえんだ? ふつう気になるだろ、そこんとこ」
「……」
「野盗をぶっ殺したって言った時も、驚かなかったな」
シュトロが、落ち葉を踏み越えながら右手を上げる。
彼が接いだという道しるべの紐が、木々の間でぶらぶらと揺れていた。ブナの樹皮を使ったサビトガの紐よりも太いシルエットを、シュトロの指がなぞる。サビトガは背負った男のひざを抱えなおしながら、低い声で言った。
「気になったからと言ってすぐ答えを求めるほど、俺はせっかちじゃない」
「俺が戦える人間だって知ってたのか? 農夫のかっこうをしてるのに?」
「戦えない人間は一人で魔の島には来ないからな。なぜカカシを背負っているかはずっと気になっていたが、今答えが分かった。『武器』なんだな、それは。頭の下に剣が埋め込まれている」
シュトロが、くん、と鼻を鳴らす。サビトガは彼の触れている太い紐に視線をやりながら、さらに言葉を続けた。
「カカシの顔をかぶっているのは、たぶんそれがお前の心理的な『儀式』だからだ。殺人をおこなうにあたり、顔を隠したいと思うのはけっして変わった思考じゃない。他人や神の非難の目から逃れるため、殺人者としての自分と、平和に日常を送っている本来の自分とを分かつため。無実を装うために人は仮面をかぶり、変身したがる」
「知った口を利きやがって。あんただってその顎骨と長髪で顔を隠してんじゃねえか」
「そうだ。俺達処刑人はみんな陶器の顎骨を着け、髪を伸ばす。自分が殺す罪人や、神から素顔を隠すためにな」
シュトロがサビトガを振り返った。彼に握られた紐が、ぐちゃ、と湿った音を立てる。「しょけいにん」と、噛みしめるようにシュトロが声を発した。
「つまり、首切り屋か。あんた。政府の命令で民衆を切り刻むクソ役人かよ」
「政府の命令ではなく、法廷の命令、王の命令だ。さらに俺の国では処刑人は拷問官も兼ねる。罪人の首を落とし、肉を焼きごてで爛れさせるのが、俺の仕事だ」
サビトガは足を止めたシュトロのとなりに立ち、ゆっくりと顔を相手に向けた。ボタンの闇と目が合うと、深く息を吸う。
「罪人の中で、特に重い罪を犯した者には、拷問死刑という特別な刑が科せられる。重大な国難を招いた政治家や、王族に危害を加えた者、あるいは著しく人道に外れ、人間存在に対する重大な冒涜を働いた者がこの対象となる」
「冒涜……」
「冒涜者だ。何よりも救いがたい、最悪の咎人のことだ。彼らは我々処刑人によって体中の皮膚と爪をはがされ、全ての肉と内臓、骨を生きながらに取り出される。運の悪い者は、半身がなくなっても意識を保っている。特殊な気つけ薬の風呂につかった状態で処刑されるからな。……俺も過去に二人、この方法で罪人を殺している」
ボタンの闇が、一瞬濃くなったような気がした。サビトガはシュトロのズダ袋の顔を無表情に覗き込み、それから少しだけ声の調子をゆるめて言った。
「お前の言うとおりだ。シュトロ。俺は合法的な殺人者、最悪のクソ役人だよ。あらゆる人類を残虐に殺し得る鬼畜だ。だから――――真人間ぶってお前を非難したり、怖がったりはしない」
「……」
「『怖がらせたい』のなら、無駄だということだ」
そんなものは、見慣れている。
サビトガの言葉を受けたシュトロは、数秒の沈黙の後、突然にゲタゲタと笑い出した。
自分が握っていた道しるべの紐……太くぬめったそれの続く先にあるものを指さし、けたたましく哄笑を響かせる。
森の中に張り巡らされた紐は、最終的に太い月光の柱の中に立つ、一本のブナの木に向かっている。うねうねと、幹や枝が不思議な形にゆがんだ古木。折り重なった枝葉の上に、道しるべの紐の『発生源』がゴミのように引っかかっていた。
腹を裂かれた、人間の屍。紐はその腸だった。
シュトロが腸を触った手で、無表情を保つサビトガの肩をばんばんと叩く。
「別に趣味でやったわけじゃねえ。紐の持ち合わせがなかったんでよ、殺した野盗のベルトやら、衣服やらをつないで道しるべにしてたんだが、ちっとだけ長さが足りなかった。だから仕方なく『引き出した』だけさ」
「機転を利かせたな。真人間には思いつかないことだ」
「気に入ったぜ! クソ役人ってのは撤回する。あんたとは心底気が合いそうだ!」
シュトロが笑いながら、カカシのズダ袋を顔から剥ぎ取った。
そこには初めて会った時と変わらない、快活なお調子者の顔がある。この顔を、人間を殺してその腸を道標代わりにする男のものだと誰が思うだろう。
仮面だ。仮面の力だ。人殺しにとって仮面は、やはり本来の己と殺人者としての己を分かつ儀式の道具なのだ。
人の顔をしたシュトロはきっと善に属する存在で、カカシの顔をかぶったシュトロは悪に属する存在なのだ。シュトロが生存するために、敵と戦うために最も合理的で非情な判断を下さねばならぬ時、彼は己の善をズダ袋の中に封印し、悪魔に変身するのだ。
サビトガも、昔は同じだった。顎骨を着けずに素顔で斬首や拷問死刑を行うなどとうてい考えられぬことだった。
殺す相手の恨みの視線、命乞いの声、そして観衆の非難がましい目つきを素顔で受け止めることなどできなかった。恐ろしげな顎骨で悪魔の貌を装わねば心が耐えられなかった。
だが、今は違う。
今のサビトガが顎骨を着け、刑場の正装で世をさまようのは、罪と良心をごまかすためではない。
それは怒りゆえだ。誇りゆえだ。
サビトガは仕方なくではなく、己の意志で悪魔の貌をさらしていた。そうする必要が、彼にはあったのだ。
「さあ、腸から衣服、衣服からベルトをたどれば、あんたの張った樹皮の紐にたどりつく。いくら地面が動いてるっていっても、ほんの数十分ですっかり地形が変わるってこたあねえだろ。帰れるぜ。火のある場所に」
シュトロが言いながら野盗の死体の下を通り、サビトガを指さした。いや、正確には彼が指さしたのはサビトガではなく、その背に負われている――クルノフの被害者、青い鎧の男だ。
シュトロは前を向いたまま、低く恐ろしい声で、言った。
「剣を取り上げるのを忘れたからって、みょうなマネはするなよ。もし俺達に危害を加えたら……てめえの腸も、木に巻きつけてやるからな」
いつの間にか、青い鎧の男が目を開けていた。彼の手が、己の腰に差した銀色の剣の柄にそえられ、震えている。
サビトガはゆるりと背負った男を振り返り、その幼さの残る緑色の目を覗き込んだ。
自分達の話を聞いていたのだろう彼に、サビトガは可能な限り穏やかな声で語りかけた。
「大丈夫だ。野盗達はもういない。俺達は味方だ」
「…………信用すると、思うか……?」
男のもっともな返事に、サビトガは陶器の顎骨の奥で、小さく笑みをもらした。
三人の影が、やがて月光の下から、再び木立の闇へと沈んでいく。