十話 『非人道の刃』
移動している地面に道を狂わされぬよう、途中何度もブナの幹に罠用とは別に用意した紐を巻きつけ、それを引いたまま先へ向かう。紐をたどりながら戻れば、確実に元の場所へと帰れる寸法だ。紐自体がブナの樹皮から作ったものなので、それが野生生物の注意を過剰に引く可能性も低いはずだ。
サビトガは数分月光の下を進み、手にした紐が伸びきったところで足を止めた。周囲は変わらずブナの木と落ち葉の世界だ。右手にちょうど良い感じに倒れた朽ち木があったので、その上に肉団子と首吊り罠を設置する。
さらにとぐろを巻いたり、水平にのたくった木を見つけては樹皮のくぼんだ場所に罠を仕掛けた。
でき上がった罠は、計七つ。リスか野鳥の一匹でも獲れれば御の字だ。
荷物袋には鹿の干し肉や干し飯が三日分はある。だが疲労を回復し体力をつけるためには、新鮮な生肉や野草が必要だった。熊の肉は栄養豊富だが寄生虫が多く生で食すのは危険だ。一分のすきもなく安全というわけではないが、リスの方が低リスクで生食できる部位が多い。
サビトガは獲物が取れなかった時に備えて、若いブナの木の皮をはがし、さらに内側にある内樹皮をけずり取り口にふくんだ。
毒さえなければ、かたい樹皮をしゃぶっているだけでも多少の栄養が得られる。それは火を通したり天日で乾かすと壊れてしまうたぐいの貴重な栄養素だ。
やわらかくみずみずしいブナの新芽などには、そういったものが成木の樹皮の何倍も含まれている。あわよくばその辺に生えていないだろうかと地面を見下ろしたところで、サビトガはふと、耳の奥に風の音を聞いた。
無風の島に、風?
眉を寄せる間もなく、そう遠くない場所から生き物の悲鳴が響き渡った。
何者かの武器が風切るように振るわれ、別の誰かを打ったのだ。サビトガは自分が引いてきた道しるべの紐を振り返る。紐は使い切ってしまって、これ以上伸ばすことはできない。紐から外れてしまえば、最悪シュトロの所へ帰れなくなるかもしれない。
だが迷うサビトガの耳に、今度は明確な人間の声が届いた。無数の粗暴なののしり声と、助けを求めるたった一人の悲鳴。誰か、誰かと繰り返す、泣き声。
「――ええい、くそっ……!」
サビトガは、走り出しながら槍から荷物袋を引き抜き、背に負った。樹皮を吐き出し、陶器のあご骨を引き上げながら、大声で「ここにいるぞ!」と叫んだ。
人の声が、足音がこちらに向かって来る。静かだった森が一瞬にして騒然となる。
助けを求める声は複数人に追われているせいか、近づいたり遠ざかったり、木立ちの中を蛇行している。逆にののしり声のいくつかがまっすぐ迷いなくサビトガに接近して来た。
最初に接触するのは、敵か。
槍を握り、耳をすまし――走りながらサビトガは、木立ちの陰から剣を振るってきた男に、刃を繰り出した。
「……何だあ」
熊肉を食い尽くして横になっていたシュトロが、不意に聞こえた声に首をめぐらせた。
離れた場所で上がった鋭い声。内容までは聞き取れなかったが、差し迫った緊急的な響きだった。耳をすませば、森の中をそれまでにはなかった様々な音が飛び交っている。落ち葉が踏まれ、舞い上がる音。木に何かが叩きつけられる音。……そして、何か、固い物どうしがぶつかり合う音。
「あいつ……まさか、ドジ踏んだんじゃねえだろうな……」
シュトロはむくりと起き上がり、自身のとなりに座り込んでいたカカシに目を向けた。不気味なズダ袋の顔面に浮いたボタンの目を覗き込むと、「どう思う?」と話しかける。
「あいつ、また熊と出くわして襲われたのかも知れねえ。熊ってのは意外と頭が良くて、鼻が利いて、しかも欲深いからよ。もしサビトガがやられたら、やつの足跡の臭いとか嗅いでここまで来ちまうかもしれねえぜ」
シュトロの手が、カカシの頭をつかむ。人形遊びのようにこくりこくりとうなずかせると、シュトロは逆の手を額に当てて「そーうだよなあー」とため息をついた。
「俺ってば顔に似合ってすげえ『イイヤツ』だからさあ、ほんとならさっさと逃げた方が『オリコウ』なのに、助けに行ってやりてえなあとか考えちゃってるわけさ。いや、じっさい熊とは限らねえよ? 本当はなんでもないことかも知れねえけど、あんな声聞いたら最悪の事態ってやつを予想しちまう。なのに見捨てられねえんだよなあー……」
『イイヤツ』だから。
シュトロはカカシの頭をしきりにうなずかせながら、「しゃあねえなあ」と尻を地面から上げた。
月光に、シュトロの赤茶色の髪があざやかに浮き上がる。その髪の作る陰の中で、真っ黒な瞳が異様な光を帯びた。作り物のように並びの良い歯を剥いて、シュトローマンが笑う。
「社会のド底辺の貧乏人のクズが、お強い戦士様を助けてあげましょうかね。何も期待されてないだろうけどよ。無学でバカな農夫が戦えるなんて、だーれも思わないだろうからよ……」
なあ? と。
急に振り返ったシュトロに、落ち葉の塹壕を足音を殺して進んで来ていた男がびくりと立ち止まった。
統一性のない、全く違う素材でできた服と鎧、靴と大量の装飾品を身につけた相手に、シュトロが唇を剥いて「野盗かあ」とすごんだ。
「いるかもなあ、そういうこと考えるクズもよお。魔の島に挑むためにとっときの高価な武器や鎧をそろえてきた冒険者、探検家連中を、法の機能していない森ん中で襲ってぶっ殺す。ひょっとしたら世界中のどの場所で行われる野盗行為より、邪魔も入らず証拠も残らず、割の良い仕事かもしれねえなあ。……自分らが、島を出られればの話だけど」
気を呑まれていた野盗が、麻布の頭巾に包まれた顔をゆがめ、左手の袖から短剣を抜き出した。そのままシュトロののどめがけ、気合と共に突き出してくる。
だが、刃先がシュトロの喉に達する前に、野盗の目の前を藁の束が覆い尽くした。つかんでいたカカシの頭を振りないだシュトロが、叩きつけられた胴体を引き剥がそうと踊るようにもがく野盗を眺める。
藁の塊とはいえ、カカシの体格はシュトロのそれに匹敵するほどに大きい。肩と股、ひじとひざ、手首足首の各部位にじょうぶな縄で関節がこさえられていて、手袋と靴の中に重石が入っているせいで揺らせば本物の人間のように手足が動く。
野盗がもがけばもがくほど、カカシの手足はまるで意志があるかのように余計に頑固に彼の首や腕にからみついた。さらにはカカシの腹や手袋に仕込まれた植物の細かいトゲが、野盗の服の繊維に食い込んで離れなくなる。
……つまりは、シュトロのカカシはカカシの形をした、捕獣網のようなものなのだ。襲いかかってくる肉食獣に投げつけても同じようにからみつき、壊されるまで行動の自由を奪う。
シュトロの戦闘を補佐する、武器のひとつだった。
やがて混乱の内に手にしていた短剣まで取り落とす野盗を前に、シュトロは無表情にカカシの頭をつかみ、ゆっくりと、引き抜いた。
胴体から離れてゆくカカシの頭には、にぶい光をたたえた刃がついている。頭の下に、まるで脊髄の代わりのように埋め込まれた刃――
カカシの頭を柄にした、異形の剣だった。シュトロは剣を月光にかざしながら、足をもつれさせて転ぶ野盗に、笑顔を向ける。
「まあ、熊じゃなくて良かったよ。ケチな盗人が数人襲ってきただけだっつうんなら、俺の連れの方が強い。たぶんね」
シュトロが剣の底についているカカシの頭に指をそえ、そのズダ袋の顔をひっぺがした。ボタンの目のついた、ズダ袋……それを、ゆっくりとシュトロが、かぶる。
カカシの顔をしたシュトローマンが、大きなボタンの真ん中に空いた穴から、未だに立ち上がれない野盗を見た。
黒い穴から覗く黒い瞳。それは、ただの闇と何も変わらない。闇が野盗を見ている。
闇が、野盗に訊いた。
「カカシから逃げない害獣は、どうなると思う?」
野盗の返事を、シュトローマンは待たなかった。
藁に抱かれた野盗のわきばらに、シュトローマンの剣が沈み込む。それはわずかにねじれた剣身に深い溝が彫られた刃。ねじれが傷口を複雑に、縫合不可能な形に引き裂き、溝を通して血液を体外に噴き出させる形状。
獣を屠殺するための、人道的な要素など全くない、血抜きの剣だった。
シュトローマンは野盗の口を押さえ込み、その断末魔の悲鳴さえ許さず、さらに何度か剣を違う場所に突き刺し……。
相手が動かなくなったのを確認してから、ゆっくりと、再び、月光の下に立った。