九話 『塹壕の火』
やがて、空に皿のような月が上がった。
ほぼ停滞している雲にふち取られたそれは月光を惜しみなく地上に降ろし、夜の森を真昼のごとく浮かび上がらせる。
まるで冬の満月のような、とぎすまされた光だ。汗の噴き出す昼間とは季節が違うかのようだった。
探検家ハングリン・オールドの踏破記念の木に背を預けたサビトガは、そんな月明かりの下で蛇と幼虫の肉をこつこつとすりつぶしていた。
荷物袋から取り出した木製の小鉢とすりこぎを使い、小さな生き物の死骸を粉砕し、潰して丸めて団子にする。
これをブナの木の皮をはがして作った紐と合わせ、小動物用の罠に仕上げるのだ。枝の股などに置かれた団子を取ろうとした獲物の首に輪にした紐が引っかかる仕掛けで、首吊り罠だとか自殺罠と呼ばれている。
手の平でこねこねと団子を丸めるサビトガ。……その目の前で、シュトロが脂のしたたる熊肉を、生木の枝で作った防煙屋根に覆われた焚き火から取り上げた。
周到にも鉄の焼き串まで用意していたシュトロは、重そうな熊肉を息を吹きかけながら食いちぎり、「あち、はち」とうまそうに口をすぼめる。
黙々と蛇と幼虫の団子をこさえ続けるサビトガに、シュトロはにやつきながら食いさしの肉を近づけてきた。
「いやー、うめえねえ。こたえらんないねえ。肉のくさみが凝縮されてて、こりゃ、たまらん味ですわ」
「……」
「その団子、食うの? それがおたくのバンメシ? つつましいねえ」
「うるさいな」
丸め終わった団子をブナの葉で包むサビトガに、シュトロはさらに一口、二口、熊肉を頬張って、ぱしんとひざをたたく。「うまい、じつにうまい」と繰り返すその顔は、まるで頬袋をパンパンにしたリスのようだ。
「やっぱり人間ってのは、いいモン食わなきゃだめだよな。ひんそーなモンばっか食ってたら頭に栄養がいかなくなって心がせまくなるよな、ウン」
「お前は十分心がせまいよ」
「欲しかったら分けてやるぜ? まだまだたーっぷり蓄えがあるんでよ」
へっへっへ、と熊肉と塩の詰まった麻袋を振るシュトロ。熊をしとめた本人に対してずいぶんな態度だ。自分はハサミで肉を切り取っただけなのに、やたらとえらぶって調子が良い。
二人は山と積もった落ち葉を利用して即席の塹壕を作り、その中で火を焚いていた。掘り返した落ち葉を積み上げて天然の塀を作り、内側を通路上にすることで焚き火の明かりを封じ込め、外から発見されないようにする。さらに地面の亀裂の向こう側の腐葉土を掘り返し、坂状にすることで、亀裂の向こうから襲ってくる敵が転落するよう罠を張った。
警戒すべき方向が限られるぶん、ただ平地に眠るよりはるかに安全なはずだ。周囲の落ち葉が敵の接近も教えてくれる。
サビトガは肉団子を手に立ち上がり、シュトロに背を向けた。槍も荷物袋も持って歩き出す相手に、シュトロは熊肉を口に入れたままあわてて声を放つ。
「なんだよ、怒ったのか? 待て! 待てって! 分けてやるから行くな! せっかく出会ったのにそりゃねえだろ!」
「首吊り罠を仕掛けてくるだけだ。別れ際の女みたいに、ピーピーわめくな」
シュトロがほっとした表情を浮かべると同時に「あー! あー! 感じ悪ぃ!」とサビトガを熊肉で指してくる。
「そのたとえが気にいらねえ! 何? ちょっと顔がいいからって、自分は女と付き合ったことあります、いつも振る側ですってか? 美人には不自由してませんってか!? くそっ、ムカツクぜ! これだから二枚目は!!」
「……俺は色恋沙汰とは縁がない。ただ、昔いた孤児院の院長先生が、ひどい女たらしだった。その手の痴話げんかはしょっちゅう目にしたからな」
シュトロが一瞬表情を消した。落ち葉の通路を歩いて行くサビトガに、彼は少し間を開けてから、なぜだかよけいに気分を害したような口調で言った。
「ガキの前で生臭い話してんじゃねえよ。クソだな、あんたの国の教育者どもは」
なにが院長先生だ。
サビトガはその物言いにわずかにシュトロを振り返ったが、それ以上言葉を返すことはしなかった。数秒後には落ち葉の通路の角を曲がって、焚き火の明かりの届かぬ月明かりの領域へと出て行く。
相変わらず、虫の音ひとつ聞こえない静かな夜だ。遠くの枝葉が揺れる音が時折聞こえるくらいで、辺り一帯が静まり返っている。
首吊り罠を仕掛けるのは、サビトガ達が眠る場所からなるべく離れたポイントが良かった。人間の気配のない、なんでもない獣の通り道。そこに仕掛けてこそ罠は効果を発揮する。
落ち葉の坂を上がり塹壕の外に出たサビトガは、周囲に動くものが一切ないことを確認してから、姿勢を低くして夜の木立ちを進んで行った。




