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棺の魔王 (コフィン・ディファイラー)  作者: 真島 文吉
棺の魔王0 -魔王の処刑人- (旧題 ヘッズマン・グレイブ)
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五話 『少女』

 人と同じ形の手足を持つ熊は、従来のヒグマなどに比べると、わずかに足が遅かった。


 焚き火に突っ込む熊の右手側にんだサビトガは、手にした荷物袋を熊の後方へと放り投げる。


 火をまとった熊がつられてそちらへ顔をめぐらせたすきに、槍の穂先ほさきを熊の右手首、人間でいうところの尺骨しゃっこつと三角骨のすき間に突き立てた。


 毛皮におおわれた関節に、するどい刃が軟骨なんこつを砕き侵入する。


 サビトガはそのまま突き立てた槍を支点に、熊のわきを棒跳びの要領ですりぬけた。サビトガの体重と勢いが槍を伝わり、熊の手首の骨がいくつか、ごきりと音を立てて浮いた。


 すさまじい悲鳴とともに熊が右腕から崩れ、火の中に腹をつく。寸前に槍を引き抜いたサビトガは足を止めずに前方へ走り、焚き火の主の攻撃に巻き込まれぬよう、距離をかせいだ。


 火が散らされたことで、周囲の闇が一気に深まった。夜明け前の岩場に、今もっとも姿を明瞭めいりょうに浮かび上がらせているのは、燃える枝を抱いてうなっている異形の熊だ。


 走るサビトガの耳に、枝葉がれる音が届いた。いで誰かがするどく歯の間から息を吸う、しっ、という音。


 焚き火の主の攻撃だ。視界のはしを、金属の光がまるで夜の海にひるがえる魚の腹のように、ぬらりと流れていく。


「――――!」


 身を起こした熊と、それを振り返ったサビトガが、同時に目をいた。


 樹上から放たれた光は熊の首の後ろ、頭蓋骨ずがいこつのつけ根に音もなく命中した。だがその光は細く、あまりにも小さく――まるで爪か、ひげをるために用意されるような、矮小わいしょうな刃だった。


 ナイフ。それもサビトガの人さし指ほどの長さしかない、おもちゃ同然のものだ。


 ……きっと、毒がってあるはずだ。熊の厚い脂肪しぼうの上からでも効くような、致死性の毒物が刃にたっぷりと塗られているはずだ。熟練の狩人がよく使う手だ。そうに違いない。


 そうでなければ――


 サビトガは、無意識に足を止めてしまっていた。なかば闇にまぎれたその黒真珠のような目が、ゆっくりと後足で直立する熊を見すえる。


 苦悶くもんのそぶりはない。いかなる痛痒つうようの気配もない。立ち上がった熊の頭は、ナイフを投げつけた新たな敵をさがしてぐるりぐるりと回る。


 そんな熊の向こうに、サビトガは見てしまった。


 岩場の向こう、ブナの木の枝に立つ、小さな影。


 細い腕をみきにからませ、歯を食いしばって地上の獣の様子をうかがっている、子供の姿を。


 子供。子供だ。それも女物の麻服を着た、せいぜい八歳か九歳ほどの頼りない少女。


 彼女の周りに仲間の姿はない。彼女を守りみちびく大人の影は、どこにもなかった。


 サビトガは、自分が年端としはもゆかぬ幼子おさなごの計略に乗ってしまったことをさとり、死人のように青ざめた。毒など塗っていなかったのだろう小さなナイフは、少女を見つけてあごを上げた熊の首から、いとも簡単に抜け落ちる。


 咆哮ほうこう震撼しんかんする空気。肩をはねさせる少女の足元で枝葉が揺れる。


 熊が燃え残った焚き火の枝を散らし、少女の上った木へ四つ足をついて突進する。


 サビトガも全力で追うが、右の手首を砕かれてもなお異形の熊の方がサビトガよりも速かった。少女が枝の上を歩き、となりの木の枝へ飛び移ろうとしている。


 熊の体当たりを食らえば、ブナの木は全身を震わせて少女を枝から地面へ放り出すだろう。体を強打してのびた少女にたけり狂った獣がのしかかり、そして次の瞬間には――


「このケダモノがああッ!!」


 えたサビトガが、羽毛のマントをひるがえして槍を投擲とうてきした。


 に翼を持つ死神の髑髏どくろの顔がり込まれた槍は、ひぃぃ、と悲鳴のような音を立てながら闇を裂いて飛び、少女に迫る熊の後頭部に命中した。


 にぶい破壊音と、血液の飛び散る音。走る熊の体がぐらりと揺れ、次の瞬間坂の中途で転倒した。


 ごろごろと転げ落ちる熊の腕が、丸い石の群をはじき飛ばす。あっと思った時には、サビトガの視界が飛んできた灰色の石に埋め尽くされていた。


 すさまじい衝撃が眉間みけんとあごに炸裂さくれつし、体中を浮遊感が襲う。


 逆転した天地。目の前に落ちる石の群。遠くに聞こえる獣のうなり声。


 気絶するな。食われるぞ。


 サビトガは自分自身に胸の内で警告しながら、しかしにじむ視界と抜け落ちていく力に何をすることもできず。


 未だ明けぬ空を抱きながら、意識を手放した。

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