四話 『獣』
がさり、がさり。落ち葉の音がサビトガの存在を警笛のように周囲に報知する。
虫の音や獣の遠吠えでも響いていればごまかしようもあったが、森は静まり返っていた。夜闇と共に沈殿した静寂の中を、サビトガの足音だけが騒がしくかきわけ、進んでいる。
なんともやりにくい森だ。血を吸いにやってくる虫の羽音さえも聞こえない。
ブナの枝や葉を利用して足音を消すかんじきを作ることもできるが、ぐずぐずしていては焚き火が消されてしまうかもしれない。他の探索者と遭遇できる機会を逃すわけにはいかなかった。
落ち葉を踏み散らしながら五分ほどを歩くと、目の前の枝を押しのけた拍子に再び焚き火が視界に入ってきた。
焚き火はサビトガの立ち位置よりも低い場所で燃えていて、木々が途切れた岩場の真ん中に起こされている。周囲に人影はない。
罠かもしれない。サビトガは一瞬そう考えたが、焚き火を起こした者がもし火に寄って来る者を待ち構えていたとしたら、落ち葉の音をまとってきたサビトガをすでに捕捉しているはずだった。
弓を引きしぼる音に耳をすませながら、サビトガは枝の間から飛び出し、草のしげる坂を下りる。
岩場に転がる石は、総じて丸い形をしている。かつて川だった場所なのか、あるいは今も雨水の通り道として機能しているのかもしれない。
鉄砲水を警戒すべき地形だった。サビトガはそんな岩場のど真ん中に燃える火に歩み寄る。
ブナの枝で起こされた焚き火は、生木の燃える煙を盛大に立ち上らせながら、ぱちぱちと激しく音を立てている。炎の中には大量のブナの実の影が見え、それらがまるでもだえるようにはじけ、ぶつかり合っていた。
つい先ほどまで、誰かが枝と実をくべていた感じだ。焚き火のわきには黒こげになった肉を刺した枝が立てられている。
小さなカエルと、野ねずみのようだった。
「……食事……?」
つぶやいたサビトガは、無数の枝の一つを手にとって見る。焼きすぎて炭のようになったネズミは、四肢をぴんとつっぱった姿で首の後ろから枝先を突き出していた。
食うために焼いたにしては、毛皮がむかれていないし、骨も除かれていない。
指先で割ってみれば内臓もそのままだった。サビトガは眉根を寄せ、改めて焚き火を見る。
開けた場所で大量の煙を上げ、実のはじける音を立てながらこうこうと燃える火。
そのわきで毛と肉の焼ける臭いを放ちながら、灯りに照らされる小動物達の死体。
煙と音、光と臭い。
はっと目を見開いた瞬間、背後で落ち葉と石がこすれ、崩れる音がした。
「しまった! この罠は……」
俺用じゃない!
振り向きざまに槍を構えるサビトガの前方で、大きな影が坂を下り、爪を石の間に突き立てた。
ごわごわとした毛皮の塊。四肢を地につけて、なおサビトガよりも高い位置にある双眸。
剥き出された牙の奥から、臓腑が裏返るような凄まじい咆哮が上がった。
熊だ。それも巨大な、見たこともない種の熊。
闇色の毛皮に覆われた肉体は、胴体と頭だけはヒグマのそれに酷似しているが、四肢の骨格はまるで猿か、人間のような形をしている。
長く太い腕と足の先に、かぎ爪のついた五本の指がある。それが地面の丸い石をつかんでは転がし、持ちかえながら、にぎりつぶした。
地面をまるでかんしゃくを起こした子供のように叩き、吼える異形の熊に、サビトガは焚き火を回り込むように後ずさり、槍から荷物袋を取り外した。
こんな化け物が、森の中にいたのか。あの腕ならば樹上で眠っているサビトガに音もなく近づき、かぶりつくこともできる。
サビトガは未だ騒がしく音と煙を吐き出している焚き火に横目を向けた。野生の獣はみな火を怖がる。そんな俗説が世にははびこっているが、それはとんでもない間違いだ。
特に肉食の動物は、赤くあざやかに燃える炎を見つけるとしばしば興奮し、火元めがけて突進してくる。炎と燃え木がはじける音、煙や、肉が焼ける臭い。正常な自然界に存在しないそれらの要素は、時に捕食動物を引き寄せることがあるのだ。
この焚き火は凶暴な熊を誘い寄せるためのものだったのだ。だがそれならば、焚き火を起こした人間もまた、どこかでサビトガと熊の様子を見ているはずだ。
そしてそいつは、きっと、目の前の熊を殺すための武器を持ち、すきをうかがっている。
熊が長い腕を地面に振り下ろし、石を撒き散らしながら前傾姿勢をとった。向かって来る。サビトガは焚き火の後ろに回りこみながら、槍と荷物袋を両手に叫んだ。
「足を止める! そのすきに殺れ!」
姿も見えない焚き火の主に放った声は、走り出した熊の咆哮にかき消された。