二話 『森』
老人の言ったとおり、島影は二時間ほどで水平線から浮上してきたが、そこに上陸するにはさらに二時間が必要だった。
白い砂の浅瀬が浜として浮上し、靴が海水を叩かなくなると、サビトガは歩き続けた足を止め、深く息をつく。
目の前に、おびただしい数の足跡があった。
サビトガが通って来た砂の道から上陸した足跡は、広い浜にわずかに拡散した後、前方にある森の中に消えている。
波の存在しない海には干潮も満潮もない。足跡を調べてみても、それらがいったいどれほど前に刻まれたものなのか、サビトガには判断がつかなかった。
ただ、これほどたくさんの人々が島へ上陸しているにもかかわらず、逆に陸から海へもどって来る足跡は一つもなかった。
立ち入れば、二度と生きては出られぬ魔の島――
サビトガは槍をにぎる手に無意識に力を込め、陶器でできたあご骨の奥で歯をかみしめた。
迷信深い漁師達の多くが案内をいやがり、しきりに島の南方の村からのびる浅瀬の道を歩くよう言ってきたのも無理のないありさまだ。サビトガが見つけた老人も、自分が魔の島に近づいたことは秘密にしてくれと言っていた。
地元の漁師達が協力してくれないからこそ、魔の島に挑んだ探検家や冒険者達の大部分がサビトガと同じルートで海を渡り、この浜の砂を踏んだはずだった。
サビトガはしばらく足を休めた後、羽毛の襟巻きを留めていた金具を外し、前方の森に向かって歩き出した。
襟巻きはばさりと音を立てて地に伸び、光沢のあるマントと化す。
自分の足跡をあまたの先客達のそれの間に刻みながら、サビトガはやがて静止した青海と白い砂浜の世界から、あざやかな緑の葉の揺れる木々の世界へと入り込んで行った。
ブナの木で構成された森の地面には乾いた落ち葉が積もり、逆に頭上には陽をたっぷりと浴びた若い葉が広がっている。
砂に刻まれていた足跡の群は当然に消失したが、サビトガは先客達の気配を見失いはしなかった。周囲の太いブナの木の幹に、彼らの声が文字として残されていたからだ。それは染料や炭をこすりつけて記されたものであったり、刃物で木の表面をけずって刻まれたものであったり……。とにかく読みきれないほどの文章が、目につく木の幹のほとんどに這っていた。
サビトガは歩きながらに、そんな書き置きの群に目を走らせる。有名な公用文字の他に数種類の見知らぬ文字群があったが、世界に存在する文字や言語の八割は元々同じ文明をルーツに発展したものだと言われている。文字の並びや規則性が似ていれば、解読することもそう難しくはなかった。
『聖暦五百年、十五の月、三の日。探検家ハングリン・オールド、魔の島に上陸す』
『冒険者クルノフ一行。偉大なる女公の命によりプローフ公国より派遣さる』
『アドラ・サイモン。水は俺のものだ』
上陸の記念に自分達の名や素性を記す。そんなのんきな文章は森の入り口の方にしかない。
奥に進むほどにメッセージは方角や海からの歩数、距離を示す数字記号などに代わり、探索者達各々が生きるための情報をはらみ始めた。
生還者が一人もいない魔の島。外部に一切の情報が渡らぬ魔境ならばこそ、実際に足を踏み入れた者達は現地に己が足跡と指標を刻むしかなかったのだろう。
そうして蓄積された情報が、新たに島を訪れた者の助けとなる。
情報が、正しければの話だが。
サビトガはたがい違いに重なった方位記号の前で足を止め、荷物袋から革の水筒を出して水を飲んだ。ずらした陶器のあご骨の奥でのどが鳴り、清水を胃に送り込む。
波のない海に囲まれた島には、一切の風がなかった。木漏れ日にほほを伝う汗が光り、地にぽたぽたとしたたる。
ふとわきを見れば、木の幹にまさしく『暑い』と切りつけたような公用文字が刻まれていた。
サビトガは水筒を下ろし、栓をもどしながら改めて周囲の書き置きの群に視線をめぐらせる。
見知らぬ森を探索するために記された道標や探索記録の中に、何の役にも立たない心情や不平不満の吐露がかなり混ざっていた。
危険な魔境に足を踏み入れた人間が、わざわざ足を止めて暑いだの喉が渇いただの、けがをしただのと、木に文字を刻むだろうか。
誰に届くわけでもないのに。自分と同じ時期に、たまたま他の誰かが島を訪れていない限りは。
「……」
サビトガは、そっと先ほどの『暑い』の字に指をそえてみる。
刃の当てられた木の傷はすでに変色しており、それがはるか以前につけられたものだとすぐに知れた。他の文字も同じだ。木の傷も染料も、それがこの場に残されてから相当の月日が経過しているとうかがわせるものばかりだ。
水筒を袋に戻し、サビトガは再び歩き出した。先客達のように木の幹に印をつけることもせず、槍を片手にまっすぐ、森の中を突っ切る。
迷うだろうとは思った。そもそも明確な目的地も分からぬ旅なのだ。
だがサビトガは同時に、自分がこんな緑あふれる豊かな森の中で行き倒れている光景を微塵も想像できなかった。
かつては泥をすすり石をなめ、野の獣でも死に絶えるような凍土に眠ってきた。
迷っても、死にさえしなければいずれ抜けられるだろう。
サビトガはそんな尊大とも言える考えのもと、未知の森をひたすらにまっすぐ、いかなる者の残した言葉にも耳を貸さず、突き進んだのだ。




