最終話
「最後の船が出るぞー! 陸に残ってるスノーバ人はいないか!? もう迎えにはこないぞ!!」
コフィン王国の南方、セパルカ領内の沿岸に、一隻の軍船が停泊している。
浜に居並ぶセパルカ・コフィンの兵士達の視線を受けながら、手かせをはめられたスノーバ人の男が声を張り上げて陸に残った同胞を探し……返事がないのを確かめると、敵国の兵士達に向き直り、頭を下げる。
「これで全部のようです。今回の出航をもちまして、コフィン王国からスノーバ人入植団は完全撤退いたします。……えー……何と言いますか……スノーバ入植者を代表しまして、コフィン・セパルカ両国の皆さんに感謝を表明します」
手かせの鎖をじゃらりと鳴らして頭をかくスノーバ人に、兵士達は凍てつくような目を向けた。苦笑するスノーバ人に、セパルカ兵の長が口元だけの笑みを浮かべて応える。
「お前達を北に送り返すのに二ヶ月かかった。神とスノーバ軍が壊滅してから、二ヶ月間、我がセパルカと同盟コフィンはお前達を生かすために大変な骨を折ってきた」
「本当にお世話になりました。一部の抵抗勢力を除いて、スノーバ人を殺さず捕虜にとっていただいたことは私としましても……」
「お前は何だ」
コフィン兵士の長が、鉄の槍を地に立てて軍船を眺めるまま、声だけを向けた。
スノーバ人が「何だとおっしゃいますと」と訊くと、やはり無感情な声だけを重ねて返す。
「ユーク将軍とその一派、冒険者組合総長レオサンドラ。この地におけるスノーバの首魁どもはすべて死に果てた。ならば、我々にスノーバを代表して言葉をつむぐ貴様は何者だと訊いている」
「あ、これは……何と言いますか、私はレオサンドラ総長のお屋敷で家令をしていた者でして。戦後に民主的な投票で臨時のリーダーに選ばれまして……」
「戦いで羊飼いが死に尽くし、迷える羊ばかりが残った。その羊毛の山から選ばれた、牙なき代表というわけだ」
セパルカ兵の長が笑い、無骨な兜の奥からスノーバ人を見下ろす。そのまぶたが何かの感情で小刻みにヒクつき、次の瞬間うって変わって残酷な声を吐いた。
「北の山脈を越えた我が国の斥候が、スノーバ本国の現状を報告してきた。神喚び師が死んだことで本国に残されていた全てのスノーバ兵団が制御を失い、野の獣同然にスノーバ人を襲っているそうだ」
「そのことを通して神喚び師の死が北の大地に知れ渡り、先に帰したスノーバ入植者達の口からユーク将軍やレオサンドラの死までも伝わった。もちろん神の消滅もな。……スノーバに組み伏せられ、吸収されていたかつての列強各国の人々はこの機を逃さず再び結束し、各地で次々と武装蜂起し現地の支配指揮官を退けている。スノーバの統一が崩れ、滅びた国々が復活し始めているのだ」
敵国の兵長達の言葉にスノーバ人の男はみるみる青ざめ、目を剥いて震え出した。その肩に優しく手を置きながら、セパルカの兵長が笑みを消す。
「北の山脈は、すでに封鎖された。これ以降は何者をも、どこの国の軍隊をも通さない。お前達をわざわざセパルカの沿岸部から船に乗せて送り返すのもそのためだ。手かせを外して北の大地に下ろした後は、我々は二度と戻って来ない。北の世界とのつながりは完全に断つ」
「我々は……我々は、どうすれば……!」
「自分達の世界のことだ。自分達で解決しろ。セパルカ王の意向で下船後のお前達には十分な食料と、剣一振りずつが支給される。スノーバ入植者の命を取らず、おのれらの尻をおのれらの祖国で、おのれらの力でふかせるべきだと、セパルカ王はおっしゃられた。我々コフィン人も、最終的にはそれに同意した」
コフィンの兵長が、氷のような表情でスノーバ人を見る。
「これが我々の復讐だ。勇者ヒルノアの遺産ぬきで、正当な殺し合いで国を勝ち取ってみせろ。不死の軍団が暴れ狂う戦乱の大地で、人間国家として戦ってみせろ。その果てにお前達が万が一国を守り抜き、再び力をたくわえてこの地に牙を伸ばしたなら……その時までには、我々コフィンも本来の力を取り戻している」
その時は、その時こそは、最後の一人にいたるまで殺し尽くす。
砂にひざをつくスノーバ人を、兵士達は物のように船上へと連行する。
乗船橋を渡り、船べりをまたいだ時――コフィン・セパルカの両兵長は、帆柱の根元にひざを抱えて座り込んでいる、赤髪の女を見た。
己にはめられた手かせを見つめる曲剣のサリダの目は、死んだ魚のようでもあり、まどろむ手負いの獣のようでもある。彼女の身には戦中に負った傷と、戦後に捕虜同士で、木っ端の雑兵同士で敗戦責任のなすりつけ合いをした時にできた傷が、平等に醜く這っていた。
彼女はそれから船が出て、四方を深い海に囲まれても、なお手かせから目を上げず。
結局、ただの一度も、遠ざかるコフィンの大地の方へは、目をやらなかった。
景色の果てを彩る海原に、点のような船が消えるのを見届けてから、ルキナは自分の鉄靴の紐を結ぶサンテに目を落とした。
彼女の解き放たれた黒髪が床をこするのをながめ、ルキナはそっとその名を呼ぶ。侍女の格好をしたサンテが上げる目は、まるでふくらんだ帆のようにまるく弧を描いていた。
ルキナは少しだけ口元をゆるめて、言った。
「お前も、あの船に乗りたかったのではないのか」
「乗りたいと言って、お許しをいただけましたか。ルキナ様?」
「……いや、そんなことを言うヤツは、地下牢に幽閉していた」
サンテが声なく笑い、ついていたひざを伸ばす。鎧を着込んだルキナの目の前で一礼すると、ほんの少し目に苦痛をにじませてから、言葉を吐いた。
「神と軍隊を失い、戦乱の時代に投げ出されたスノーバ……そこに皇帝家の血を引く私が戻れば、更なる混乱をかの地にもたらすかも知れません。きっとスノーバ人達は私を裏切り者として処刑するより、亡き皇帝の威信を復活させ、皇帝に恩義や忠義を抱いていた民族を味方に引き戻すのに利用しようとするでしょう。
へたをすれば、私が女皇として玉座に座ることになるかもしれない。そんなことは、どんな形であれ、許されないのです」
だから、よいのです。これでよいのです。
そう言うサンテの左のほほには、消えかけたあざがうっすらと浮いている。二ヶ月前の決戦の後、何度も自害しようとしたサンテをルキナがそのつど殴り飛ばした跡だった。
ユークの野望と命が潰えてもなお、自分の犯した罪と、自分が生きていることで生じるかもしれない災厄に苦しむサンテをおさえるのは並大抵ではなかった。
いっそ死なせてやるのが慈悲かも知れぬと言う家臣もいたが、ルキナは決して首を縦には振らなかった。サンテがまがりなりにもスノーバを倒し、コフィンを存続させるために力を貸してくれた仲間だということもあったが……罪を負った者が苦しみながら命を燃やしつくし、死をもって贖罪を果たしたかのような形でこの世を去るのを見るのは、もうたくさんだった。
ルキナはダストが、戦いのあと別れすら告げずに消えたことを怒っていた。嘆いていたし、悲しんでいた。だからこそ彼と同じように消えようとするサンテをあらゆる手を尽くして現世につなぎとめた。
死ぬな。生きて苦しめ。そんな残酷な要求を呑ませたのだ。
彼女の心にくすぶる罪業の後悔の火は、生涯消えることはないだろう。彼女の死を心底望んで果てたスノーバ人も多くいるのだろう。それは正当な怨みで、正当な呪いだ。自分の行為を悔いるサンテには確かに、それに応える責務があるのかもしれない。
だが、それでも、少なくとも、彼女の姉は、彼女を許したのだ。あの幻のような死せる皇女は、確かにサンテを許した。他の幾千幾万のスノーバ帝国人の亡霊達がサンテを呪ったとしても、彼らの死の責任がサンテにあるとしても、それでも皇女テオドラは、サンテを許すために、生かすために現れ出でた。彼女のために。きっと、彼女だけのために。
許すと。もういいと。その言葉は、罪人の魂を解き放つために吐かれたもののはずだ。それもまた、サンテの被害者の声のひとつであるはずだ。
サンテはルキナのこの考えを、否定も肯定もしなかった。ただ聞いた瞬間に自分の胸をかきむしり、息もできぬほどに苦悶して――――それから、自分の命を絶とうとは、しなくなった。
人は、生きていればいいというわけではない。だが死ぬことで全てを解決できるわけでもない。
ルキナは迷えるサンテを、もはやこの世のどこにも行き場をなくした彼女を、同胞として、可能なら友としてそばに置きたいと思った。そうして心に積もった悲しみや後悔の塵を、少しずつ分かち合っていければ……きっとサンテが、心から笑える日も、くるはずだ。それが許される日が、くるはずだ。
サンテがルキナの後方へ身を引いた。居並んだ家臣達――騎士団、戦士団の面々、調教師ダカンや、魔術管理官ロドマリア、チビ達の中に、戻っていく。
そしてそれと入れ違いに戦士団長ガロルが、戦場から回収したルガッサ王のマントを手に列から出る。穴も血の汚れもそのままにされた先王の国旗のマントが、ルキナの背にかけられる。
ルキナは、目の前に立つ石の王冠をかぶったセパルカ王を見た。全身に純銀の細鎖をちりばめた王の背後には、彼の子供達と、家臣達が並んでいる。
ここはコフィンの王都の上空。戦後二ヶ月かかって再建された『神梯子』の頂上だ。
コフィンの王都の形を、形作られたモルグの紋章を見下ろすための、物見やぐら。破壊された王都に浮かぶモルグの形は多少いびつだが、じょじょに、じょじょに元の姿に甦りつつある。
ルキナは疲弊していた戦後コフィンに惜しみなく食糧や作物の種、救援物資と復興援助のための人材、兵団を派遣してくれた偉大な隣国の王に敬意の礼を示した。
「セパルカ国王、ジクトール。我が国は貴国から受けた大恩を永久に忘れぬだろう。本当に……本当に、お世話になった」
「いいや、コフィン国女王ルキナよ、礼を言うのは我らの方だ。北の世界からやってきた神と不死の軍団の猛攻と支配をよくぞ耐え抜き、打ち倒してくれた。セパルカの北にコフィン王国という強大な同盟国がなければ、今日こうして私や息子、娘達が地の上に立ち、息をしていることもなかったかもしれん。コフィン人は、セパルカ人の恩人だ」
「…………その言葉、亡き父王の墓にも報告させていただこう。素晴らしき同盟関係を残せたことに、父の魂もきっと満足されるに違いない……」
「ルキナよ、確かにルガッサ王との盟約もあったが……しかしこと最後の戦いに際して、私に兵を率い国境を越え、コフィンの援軍に駆けつけようと決心させたのは、そなたが使者ダカンに持たせた書簡の文面なのだぞ」
目をわずかに見開くルキナに、セパルカ王の背後に立つ彼の王子、王女達が肩をすくめ、顔を見合わせながら口々に言う。
「絶体絶命だから助けてくれって言ってきたのかと思ったら、逆にこっちを心配してるんだもんな」
「スノーバ軍がセパルカに迫った時は、もうコフィンは倒されているものと思ってくれ、ってさ。つまりコフィン人は完全に倒されるまで、自分達だけで戦う気なんだって思ったね」
「神の秘密も、自分達の状況も、すべて包み隠さず伝えてきた。何というか……『託されてる』と感じる手紙だった。後は頼む、負けるな、そう言われてる気がした。
だから、逆に、みょうに血がたぎって……是が非でも、助けてやりたくなった」
「分かるか、ルキナよ。そなたの手紙は未来に向いていたのだ。そなたらが滅び、セパルカが危機に直面する遠からぬ未来のために書かれた手紙だった。自国の現在のためではなく、他国の未来のためにしたためられる……そういう文書は、国家間において……特に戦争の局面においては、中々お目にかかることがない。
ある意味では非常識だ。だがだからこそ、我々セパルカ人の心に響いた」
セパルカ王ジクトールが、銀鎖の這う腕を灰色の空に向けて立て、岩のようなこぶしをにぎった。
「ルキナ。そなたのそのような気性、心根……おそらく多くの者が愚かと、幼稚と、そして王の器に値せずと評価したと思う」
「……はい。それはもう、何度も」
にやりと笑ったセパルカ王が、両腕を広げて大声で言った。「私はそうは思わん!」と。
「現実主義、合理主義は確かに国の運営には有効だ! それらが完全に欠如している国家には先がない! しかしながらやっかいなことに、現実視点と合理のみに徹する国家もまたすべからく不幸になるのだ! 人間の集まりである国家から人間性が欠落する! そういう国は結局他国から信用されず、人の姿をしながら人でなくなった獣の巣になってしまう! 我がセパルカは人の国家とだけ国交を持つ! 獣の巣など狩猟の対象でしかない!」
セパルカ王が雲間から降りる光の柱をあおぎ、瞳だけを転がしてルキナを見下ろした。巨人のような王の視線が、ルキナから、その背後にいるスノーバ人サンテへと移る。その目が年相応にしわを刻み、優しげな形にゆがんだ。
「――ルキナ女王の人間性は、国と人のあり方と、運命を動かした。それは偉大なルガッサ王にもなかった『徳』だと、私は判断するよ」
誇ってよいことだ。
歯を剥いて笑うセパルカ王が、腕を広げたまま向き合う二つの人間の列から外れた。ルキナは、数秒彼の背を見つめてから……一度だけ口に笑みを浮かべ、後を追う。
神梯子の上にいる全ての人々が、モルグの紋章の形を浮かべる王都へと、体を向けた。
セパルカ王とルキナがやぐらの端に並んで立つと、モルグの形のいたるところから歓声が上がった。はるか眼下、建物の上や路上、石壁の上に豆粒のような人影がひしめき、手や、国旗を振っている。
コフィンの人民と、セパルカからやってきたジクトールの民が、ないまぜになって王都に存在していた。
両国がともに戦火を生き延びたこと、コフィンが再びコフィン人の土地に戻ったことを祝い……セパルカ王ジクトールの偉大な勝利と、ルキナの女王即位をたたえ……さらに二国間の同盟を永遠なるものとするよう、誓い合う。
様々な意味での。真の終戦の儀式。
国が再出発するための、再生の祭典だった。
「王国コフィンに!」
セパルカ王が左手をかかげると、地鳴りのような声が地上から噴き上がる。
「王国セパルカに!!」
ルキナが右手を空にかかげ、それをセパルカ王がにぎると、歓声はまるで竜の吼え声のように、世界を、空を震わせた。
「この国は、きっともう大丈夫ね」
「ああ。神の国、スノーバの侵攻……千年に一度の災厄をしのぎきったんだ。もはや並大抵のことでは揺らぐまい」
王城の屋上、大きなコフィンの旗立て台が屹立するそこで、ダストはナギのかたむけられた頭を肩で受けた。
ボロ布であつらえた外套の肩からは、灰の体が崩れてはわくザラザラという音がこぼれる。ナギは、かつて約束したとおりに二人でコフィンの空を眺めながら、細めた目をちろりと外套の方へと転がした。
「ねえ、ちゃんとルキナ様やガロル団長にもあいさつしていきなさいよ。みんなあなたが他の魂達といっしょに空にのぼって行ったと思ってるんだから」
「……ああ……分かってる」
「絶対に黙って帰らないこと。あのかわいいお嬢さん達のためにもね」
ダストが火種の目をまたたかせると、ナギが外套の肩から頭を離して少しばかりいやらしい笑みを浮かべた。「隅に置けないおじさんですこと」と続ける彼女に、ダストは外套のフードをずるずると頭に引き上げる。アッシュとアドのことかと、灰の顔面から空咳を一つ、こぼした。
「彼女らのことは……コフィン王室内では、どういう扱いになっているんだ……?」
「大丈夫。あなたが危惧するようなことは何一つ起こってないわ。あの二人は神と正面から戦ったコフィン人の戦友ですもの。むしろルキナ様以下家臣一同、どこに行ったのか心配してたくらいよ」
「そうか……」
「ルキナ様ね、国が落ち着いたら、魔術関係の法律と歴史の碑文に手を加えるおつもりよ。魔王ラヤケルスの時代から続く『ゆがみ』を修正して、明らかになった事実を全部加えた正史の碑文を新たに作るんですって」
ダストはナギへ顔を向け、「それは少々やっかいだぞ」と声を低くする。
「歴史観の修正は常に危険がともなう。特に国の根源に関わるような事件やそれから派生した法律は、安易に手を加えれば思いもよらぬところから問題が噴出し……」
「バカね、あなた達のためなのよ。魔王ダストとその一派が正当に評価され続けるために、間違っても誰かに迫害されたりしないためにルキナ様が手を打ってくれようとしてるんじゃない」
ナギは髪をなでる風を吸い込みながら、腰の後ろで手を組む。空からひとつぶの粉雪が落ちてきて、彼女の鼻をかすめた。
「今ある正史の碑文はそのままに、隣に新しい石碑を建てるんですって。この戦争で起きたこと、明らかになったこと……魔王達の物語や、勇者ヒルノアの物語、フクロウの騎士や狩人、剣闘士マグダエルの物語。全てを、事実をそのまま書き連ねて、残すんですって。そうしてルキナ様の王歌にもあなたの名前が入るの。女王に力を貸した、魔王の名がね」
「……」
「一緒に歌いましょうよ。誰もいない、雪の降る墓地で。子供の頃みたいに……」
「…………また、『約束』か。いつか並んでコフィンの空を眺めましょう。その約束を果たしに来た俺に、また新しい約束を結ばせようとするんだな」
ナギが、ひときわ高く声を立てて笑い、ダストの灰のわきばらをひじで突いた。
「女が約束を重ねるのは、相手とこれっきりにならないための呪いなのよ。覚悟なさい、きっと十年後もあなたは私と、どこか景色のいいところでだらだらとおしゃべりをしているわ。二十年後も、三十年後も。私がしわしわのおばあちゃんになっても、ね」
「……かなわないな」
君には。
つぶやくダストの腕が、ざらりと音を立ててナギの肩にのる。
皮手袋をはめた指が、はにかむ彼女の髪をすいた。
さらさら。さらさらと。
「アッシュちゃーん、ここの壁びみょうにかたむいてるんだけど。柱倒れてきてんじゃなーい?」
「やめてやめて! 叩いちゃだめ! せっかく苦労して建てたんだからあ!」
波の音がする入り江に、二人の女の声が響く。
草原の草のじゅうたんがとぎれ、白い砂浜になりかわる境界線。そこにぽつんと建つほったて小屋の外壁を支えながら、アッシュがひたいの汗をぬぐいぬぐい言う。
「おかしいなあ、なんでまっすぐ建たないんだろう? ちゃんとダストに教えられたとおりに作ったのに……」
「いや、教えられたとおりに作れてないよ。寸法も間違ってるし縄の結び方もまちがってるし。そもそももっとしっかりした作りにしなきゃ、半年ももたないよ。今のダストに力仕事はつらいだろうって家作りを買って出たくせに、いったい何軒建てては潰してんの、アンタ」
上半身だけの体を両手で運び、砂の上を跳ねるアドの台詞にむくれるアッシュ。木板の壁から手を離せばめりめりといやな音が響き、柱ごとかたむいて干し草の屋根が揺れた。
アドがけらけら笑い、「やめなやめなー」と歌うように叫んだ。
「そんな家危なくて住めやしないよ! しばらくはそこの岩場の洞穴住まいでいいじゃない、焚き火で暖をとってさ、イソギンチャクでも焼いてかじってりゃ生きていけるさー」
「うう、イソギンチャク生活はやだ……前の古代樹の家は良かったよね、おしゃれで、快適で」
「ぶっ壊れちまったんだからしょうがないだろ? それにコフィンとセパルカの連中が草原の大掃除や、作物の畑の開墾を進めてるから、どうせあそこにゃいられなかったよ。ここはコフィンと地続きだけど、地形の関係でモルグの風が吹き込まないから癖地って言われて領土からはじき出された場所さ。だからコフィン人はまず近づかない」
「癖地?」
「立ち入ると不幸がふりかかる魔性の土地のことさ。魔王様の隠居場にはぴったりじゃないさ!」
きゃはは、と高く笑うアドに、アッシュはかたむいた家を支えるのをあきらめて入り江の水たまりに臨んだ。
確かに魔性の土地と言われるだけあって、生物の気配が希薄な場所だ。広大な海原とつながっているはずなのに透き通った水中には魚の影一つ見えず、たまに動くものがあると思えば、ちょっと食べてみるのが心配になるような異様な形の貝の舌だったり、細かなゴミのような発光するイカだったりする。おまけに波の音はするのに、入り江内の水だけは鏡のようにぴったりとかたまって動かないのだ。これでは外海から魚が流されてくることもない。
もっとも、まともな海産物のとれる場所ならば癖地などにもならず、飢饉に悩むコフィン国王の管理下に置かれているはずだった。食べがいのない生き物しかいないのも仕方がないのだろう。
「……でも……すごく、きれいな場所だね」
「人間のいない場所はどこだってきれいさ。ま、アッシュちゃんの人生の最後をかざる土地としちゃ、上出来じゃないの? ここでずーっと暮らすんでしょ。ダストといっしょに」
砂の上にほおづえをつくアドの言葉に、アッシュはちらと彼女を振り返る。「ん?」と口端をつりあげる相手に、アッシュはつい同じようにほほえみながら、鼻の頭をかいた。
「何か引っ越さなきゃいけないようなことが起こったら、別だけど……」
「何ごともなければ、末永く魔王様とご一緒に、って? ま、アッシュちゃんは天涯孤独の身の上だし、行くとこもないしね。静かな入り江で脳ミソ溶けるまでぼーっと生きてても誰も文句言わないわよねーぇ」
「アドは、どうなの? ラヤケルスを……ダストと同じように不死の存在になったかも知れないラヤケルスを、捜しにはいかないの?」
アドが、一瞬遠くを見すえるような目をする。しかしすぐにもとの目つきにもどって、「まあ、とうぶんはいいや」と、片手をひらひらと振る。
「神とやり合って、ちょっと疲れちゃったし。別にあわてて捜しに行くこともないわよ」
「……」
「なんていうかさ、仮に父さんが死んでなくて、この世を今もさまよってるんだとしたらさ……だったらなんで、何百年もの間、一度もあたしに会いに来ねえんだって思うじゃない?」
アドは目を閉じ、ため息混じりに「死んでるよ」と続けた。
「きっとヒルノアの回帰の剣につらぬかれて、マリエラみたいにバラバラに分解されて消えちまったんだ。でなきゃ、そうでなきゃ、あたしがカワイソー過ぎるでしょ」
「……アド……」
「燃えさかる炎の魔王になって、本物の家族の魂と再会して、満足しちゃったってことじゃない。作り物の娘なんか、もう用済みで、忘れちゃったってことじゃない。……あたしの記憶の中のラヤケルスは、そんなやつじゃないの。だからきっと死んでる。もう、この世にいない」
そうなの。そうに決まった。
にじみ出るような声で言ったアドに近づいて、アッシュは彼女の体をひょいと抱きかかえる。横目をくれるアドに、アッシュはことさら明るく笑ってみせた。
「アド。ばんごはん、何がいい? 古代樹の家から持ってきた食べ物がまだ残ってるんだ」
「……バカじゃねえの。内臓ないのに食えるわけないだろ」
「でも味は感じるんでしょ? 毎日私だけ食べるの気が引けてたのよ。甘いのがいい? それともからいのが好き? ラムライの花とお塩があるからどっちも作れるよ」
「お前なあ! これからこの貧弱な土地で食いモン確保して生きてかなきゃならねえってのにムダ使いすんじゃないよ! あたしとダストは食わなくて大丈夫なんだから!」
「机かこんで食べるとさ、『家族』って感じ、するよ?」
ひく、とほほを吊るアドを、アッシュは入り江の水を映した目で、見る。
「一緒に生きようよ、アド。私、今はぶきっちょだけど、きっと素敵な家を建てられるようになるし……生活するのに必要なことも、全部覚えるよ。もしまた世界が変わるようなことがあってもさ。ちゃんと乗り越えて、戦っていけると思う。
だからさ……私と一緒に、ごはんを食べてよ。私とダストと一緒に、人生を生きてよ」
「……………………けっ。死体人形に人生もクソもあるもんか」
ぐいっ、と一度アッシュのあごを押しのけてから、アドはそれでも、アッシュの腕の中からのがれようとはせず――自分の身を抱きながら、「まあ、考えてやる」と視線をあらぬ方向へとそらした。
「どうせこっちは時間には殺されない身の上なんだ。生者のままごとにつきあうのも、ま、良いひまつぶしにはなるだろうさ」
アッシュはアドの言葉に、笑みをたたえたまま無言でこくりとうなずいた。
灰色の世界に、雲間から細い光の柱が降りてくる。
鏡のような水面に光のしぶきがはね返り、海中の砂にかくれていた大きな色鮮やかなエイがめいわくそうに身もだえして、入り江の隅へと泳いで行った。
原初の魔王の時代から、千年もの時とそれを生きた人々の魂を内包してきた、棺の世界。
アッシュはその切れ端に立ちながら、目を閉じ――やがて後方から聞こえてくる、砂を踏みしめる音に、耳をすました。
さくさく。さくさく。靴音には時折、灰のこぼれるさらさらという音がまじる。
隣に立つダストの肩に、アッシュは目を閉じたまま頭をあずけた。胸の中のアドが鼻を鳴らし、腕を組む音を立てる。
風の吹き込まないはずの癖地に、さあ、と、一陣の草の匂いのするそよ風が舞い降りた。
鏡の水面に波が立ち、波紋が外海へ向かって広がり――
遠くの雲に、ひとすじの稲妻と、竜の影がおどった。
――――了。
以降
『棺の魔王0 -魔王の処刑人-』




