百五十話 『灰に。花を。』
雨粒の舞う暗い草原。
赤い蛇の大群や神の破片が降りそそぎ、穴だらけになった草原。
魔王の火に炙られ、焦がされた草原を、アッシュは重い足取りで行く。
背中に負ったアドはさなぎのようにちぢこまり目を閉じている。「だいじょうぶ、生きてるよ」と最後に聞いたのは数分前だ。アッシュは頭の中でまた声をかけようと思ったが、思うだけで、唇は動かなかった。
目の前に、崩壊した石の祭壇がある。アドが地下から這い上がる時に壊してしまったそれは縄ばしごも外れて、もうほとんどただの穴になっていた。
深く、深く、地の底まで続く深淵。
その真上でアッシュは、ダストと出会ったのだ。石材一つ外れれば真っ逆さまの死のふちで、雨に濡れながら……。
アッシュは深淵を無言のままに通り過ぎた。歩き続けて、やがて丘に差しかかると、ダストの古代樹の家が視界に入る。
古代樹は、何かに潰され半壊していた。ほぼ真上から加えられた衝撃が屋根と外壁を砕き、草のカーテンも、虫の羽の天窓も引きちぎって散乱させていた。
すでに霧散した赤い蛇か、マリエラの肉片のしわざだろうと思った。家を壊したものの影はなく、ただ破壊の跡だけがある。
アッシュは歩く。丘を下り、じょじょに強まる霧雨の中、古代樹の残骸へと。
あるいはアドが言ったように、一刻も早くこの国を出るべきなのかもしれない。
コフィンにはもうアッシュ達の居場所はないのかもしれない。
だがそれでも、アッシュは古代樹の家に帰りたかった。崩れていても、雨水に侵されていても、あの家へ戻ってダストの残り香を探したいと思った。
丘を下りきり、砕け散った太古の木片を踏む。家の崩壊面はアッシュの正面からわずかに左を向いていて、崩れ残った壁面の向こうに砕けたつぼや、外れた戸棚が散乱する床が見えた。
風が、びゅう、と鳴いた。
アッシュは自分の濡れた髪にほほを叩かれながら、ふと、立ち止まる。
崩れ残った、壁面。ささくれ立ったその端から、何か――青白いものが、流れ出ている。
風に流れるそれは、まるで霧のようで。もやのようで。煙のようで……。
アッシュは次の瞬間、壁面の奥にいる何かの元へ、全速力で走り出した。
背中でアドが目を開ける気配がする。視界の隅で雨雲が明滅する。足の下で何かの残骸が潰れる音がする。
アッシュは、五感の全てを自分の正面だけに集中した。やがて壁面を回り込むと、彼女は、雨ざらしの家の中へと、たどりつく。
「――――やあ――――おかえり――――」
アッシュ。
そう声を発したものの姿に、アッシュは跳ねる心臓に息を返すのも忘れて、唇を血がにじむほどに噛みしめた。
分かっていたのだ。そんなはずはないと。
彼がどんな理由で消滅をまぬがれ、どんな因果でそこに現れたとしても。
決して五体満足で、たとえ霊体としてでも人間の形をしているはずがないと。分かっていた。
屍すら燃え上がり、魂の集合体としての魔王の姿さえ砕かれた彼は……ぼそぼそと細かいものが崩れるような音を立てながら、床に投げ出した足をうごめかす。
「ケガを、しているな……向こうの戸棚に、傷薬が、残ってる……使うといい……」
「……」
「石窯が壊れてなければ、湯も、沸かせたんだが……とにかく、服を、着替えて……」
アッシュは彼の前にひざをつき、その面相も分からなくなった頭部に指を近づけた。
ダストは青白い霊体の姿さえ失って、まるで、灰の塊のようになっていた。青白い火種を点々と残した、薄煙のような魔力の名残を絶えず立ち上らせる、灰の人型。
巨大な魔王の炎が、もし、人の魂を燃やして生じたものだとしたら……今のダストは、その燃え尽くした魂の灰が降り積もってできた、燃えくずだ。
アッシュの指は、温かい灰の眉間にわずかに埋まり、しゅう、と音を立てた。顔をゆがめる彼女に、灰の頭部に宿った青白い残り火の双眸が、まばたきをするように明滅する。
「魔術の代償……ラヤケルスの秘術に手を染めた者がたどる末路を、俺は、少し、誤解していたらしい……。生きながらに、死体に近づいていく……そう理解していたが……実際は、生命力を使い果たしても、死体に成り果てても……その形すら失くしても……『死ねない』……そういうことなのだろう……」
死を冒涜した者に下される罰は、死を得られなくなること。死にたどりつけなくなること。
未来永劫、人外の姿で現世に留まらなくてはならなくなることだったのだ。
アッシュの肩を、アドが不意に強く握りしめた。彼女が魔王ラヤケルスの末路に期待を抱いたのはすぐに分かったが、しかしアッシュは肩を握る手をそのままに、ダストの灰の顔を両手ではさみ、うなるように問いかけた。
「苦しいの?」
アッシュの触れた場所から、この世ならざる灰がわずかに、空中に舞い上がる。触っている感触はあるが、灰の粒子を吸い込んでも鼻やのどが焼けたり、咳き込んだりすることはない。まるで風を吸ったかのように、アッシュの体内に入った灰は瞬間的に無に帰している。
「苦しいの? ダスト……」
問いを繰り返すアッシュに、ダストが灰の手で彼女の顔をはさみ返す。
ぼそりと灰がこそげ、舞い散るが、ダストの体は崩れるそばから再生する。灰の体の奥底から、無限に新たな灰がわき出るかのように。
無限に死に続け、無限に生まれ続けるかのように。
……でも、それでも。マリエラを消滅させた回帰の剣なら、ダストを殺してあげられるかもしれない。
もし、ダストが苦しいのなら。魔術の反動に、業火の残り火に痛覚を焼かれているのなら。己の姿に、苦痛を感じているのなら。
アッシュは、きっとまだこの世界のどこかにある回帰の剣を、彼のために――
「最も耐えがたい苦しみは、消えたよ」
ダストの火種の目だけが浮かぶ顔面が、以前と何も変わらぬ、優しい声を返した。
アッシュの雨に打たれる髪を、温かい熱を持った灰の腕が抱く。その手がアッシュの背後にいるアドの髪までも包み、うす青い火の粉を宿す指でなでた。
「君に聞いてほしいことが、たくさんあるんだ。君に聞かせてほしいことが、たくさんあるんだ。……大丈夫だよ、アッシュ……俺は、もう……苦しんでなんか、いないから」
「……あ……」
「君を迎えに。帰って来た」
約束の通りに。
耐えられなくなったアッシュが、ダストを力いっぱい抱き返すと――灰と火種が、雨の中、花のように舞い散った。