百四十九話 『雨』
――やがて、世界からマリエラの痕跡が全て消えうせた時。
空に在った夕陽のような光球も、光の渦も、魔力の粒子も。おびただしい肉片の群も、全てが風の中に霧散し、消失した時。
大地には粉々になった不死の巨人の残骸と、ユーク将軍の形をした血液の染みだけが残された。
何千ものマリエラの分身の下敷きになったユークは、肉も、内臓も、衣すらも全てが土の中に潰し溶かされ、ただの赤黒い人型と成り果てていた。
ルキナはその人型を立ったまま見下ろすと、次いでゆっくりと、周囲へ視線をめぐらせた。
全てのコフィン人、セパルカ人達は、無言のままその視線を己が瞳で受ける。彼らの後方にいるスノーバ人達は逆に一人の例外もなく目を地に落とし、立ち尽くし、ひざまずいていた。
ナギ達に身を支えられるサンテすら、血痕と化したユーク将軍から目を上げようとはしない。
ルキナは視界に、たった一人の、たった一匹の敵すら残っていないことを確認してから、長く、深く、詰めていた息を吐き出した。
「――――勝ったのか――――」
我々が。
そのつぶやくような一言が、人々の沈黙を一気に破った。天に、地に、コフィン、セパルカ両国人の勝ち鬨が響き渡る。
喜びの表情を浮かべている者は少数だった。ほとんどの顔が泣き、叫び、安堵と収まらぬ怒りと、死した友への悼みに満ちていた。それでも声は、己らが勝者であることを示すための吼え声だけは、堂々と高らかに世界へと放たれていた。
ルキナは咆哮の渦中に立ちながら、ふとアッシュとアドの姿が見えないことに気づいた。首を振り、彼女らの名前を呼ぼうとした瞬間。ルキナは目を見開き、絶句する。
中空を見つめる彼女の様子に、やがて勝ち鬨を上げていた人々が次々と事態に気づいた。咆哮は自然に少なくなり、収まる。
――空を、青い火花が舞っていた。マリエラの爆発に巻き込まれた魔王が粉々に分解され、生じた火花。それがきらめき、ゆらぎながら、ルキナ達のもとへ雪のように降りてくる。
ぱちぱちとはじける火花の中に、煙よりもあわい、人間の形が見えた。魔王の中にいた亡者達が、魔王の火に身をくべた死者達が、今にも消え去りそうな幻のような姿で空中をただよっている。
「ケウレネス……」
ナギが震える声を上げた。彼女の頭上に、王都の裏門を守っていたはずのダストの弟の影がある。まるでもやのような、霧のようなケウレネスのおぼろげな形は、ナギやガロルや、ルキナを一瞥すると、にっこりと、満足したような笑みを浮かべ、風に形を溶かしていった。
周囲で、様々な感情を乗せた声が上がる。火花の中に浮いた数え切れないほどの亡者達が、生者達に無言のうちに、別れを告げているのだ。
突然、カン高い断末魔のような叫びが、ルキナのすぐそばで上がった。
ルキナは最初、その叫びを狩人の影に手を伸ばすチビのものだと思った。だがチビは口を引き結び、必死に泣き声をこらえている。
視線をずらせば、ナギの手を逃れたサンテが顔中をぐしゃぐしゃにして、地べたを這いながら泣き叫んでいた。
彼女の視線の先にいるのは、見覚えのない、身なりのいい女性の影……。
「あの女性です」
ナギが、一度はなをすすってから、ルキナに言った。
「仮死状態のサンテを、肉断ちの剣で切れと――私達に命じた亡者です」
サンテが、しきりにごめんなさい、ごめんなさいと叫んでいた。彼女が一度も出したことのない、小さな女の子のような泣き声で。
女性の亡者はその形を風にゆらがせながら、じっとサンテを見下ろしていたが……やがてひざを曲げると、サンテの頭に、なでるように手をそえた。
女性の唇が、声なく動く。だが何を言ったかはルキナにも分かった。
女性は『ゆるす』と言ったのだ。『もういい』とも言った。そうして、ようやくルキナにも……女性の正体が、分かった。
「おねえちゃん……!」
涙でにごったサンテの呼び声に、スノーバ帝国皇女テオドラはゆっくりと目を閉じ、ほほえみながら、風に溶けた。
地面にひたいをこすりつけて泣き続けるサンテからそっと目をそらし、ルキナは青い火花の舞う空を見上げる。
本当に、本当に多くの亡者達が、魂達がこの戦争に現れ出で、力を貸してくれたのだ。神やスノーバ軍にほふられた人々が未だ抗い戦う生者のために、あるいは自分達自身の決着をつけるためにダストの魔術に応えてくれた。
そうして二度目の戦いを敢行し、炎の魔王と化し、ルキナ達の前に立ってくれたのだ。
ルキナはゆっくりと息を吸い、地上へ視線を戻す。
目の前に立っている父王ルガッサと、フクロウの騎士、そして剣闘士マグダエルの影に向かってルキナは両の手の指を組み、残った気力全てを声に込めて言った。
「全てを受け継ぎます。あなたがたの力も、魂も、戦いの記憶も。この地を再び甦らせ、国を再興させ――必ず、あなたがたの時代以上のコフィンを、この世に生んでみせます」
どんな敵が、苦難が襲ってこようとも。必ず。
ルキナの背後で、ガロルや戦士達が同じように指を組み、敬礼する音がした。
三人の亡者もまた彼女らと同じ姿勢をとる。それぞれの兜の奥から、力強くも優しい目が生ける王女を見つめ……そのまま、光の粒として、流れ溶けていった。
やがて、生き残った人々に別れを告げた亡者達は再び青い火花の群に戻る。周囲に風がさかまき、火花が混ざり合い、集束し――巨大な、竜の形になる。
激しく明滅する竜の形は声なく吼え、空に長い首を伸ばし、そして、火花の翼を振り下ろした。
大地に閃光が走り、竜が飛翔する。曇天へ向かうそれは、これから世界のどこに在るのか。あるいは天空へ溶け去り、人の知らぬ世界へと還るのか。
死した人間と、守護神の魂の集合体はやがて雲の中に飛び込み、無数の稲光を残して、消えた。
空には灰色の雲が残り、ややあって、地上に雨が降りそそぐ。
粒の細かい霧雨が、世界を、優しく洗い流していった。




